国名の由来はその国の民族・歴史・文化的背景を持っています。それを知ることでその国をより理解できるようになるかもしれません
Wikipediaを中心にインターネットで調べて出来るだけ私的な解釈を記述しました。解釈の違いはご容赦願います。

日本語、現地語、英語の国名は2017年2月17日のWikipediaによります。
地域分類は国連分類に従いましたた。 中華民国(台湾)は旅行される方のことを考慮し、記載しました。

内容は2017年2~3月ごろの記載時点の情報です。
正確を期すように努力しましたが変更や誤りがあるかもしれませんので、使用される場合は他の情報ソースでも確認ください。

構成は下記大陸分類にしました。クリックしてお進みください。




アジア
Asia
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日本 (日本語)
日本
日本列島を統一したヤマト朝廷のころは中国が絶大な国力を有し日本も朝貢していた。このころ中国や周辺諸国では中国皇帝が国名を定めた(またはその国が提案し皇帝が認証した)。日本は「倭」「倭国」と呼ばれた。金印「倭奴国王印」にそれが示されている。
702年に派遣された遣唐使の申し出に対し則天武后が国号を「倭」から「日本」とすることを認めたという記録があり、これにより正式に「日本」となった(唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義』)。

「日本」は「日出づる処」という「中国から見て東にある国」ということに由来する。「日出づる処」は仏典「大智度論」巻十にある。「日出處是東方。日沒處是西方。日行處是南方。日不行處是北方」という東西南北の言い回しの一つである。つまり「日本」は中国から見た国号であり、唐の歴史を記述した『旧唐書』の「東夷伝」に初めて「日本」の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」とある。「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」とあり日本側が「倭」を好まず「日本」を提案したということのようだ。
当時「中華」の国々は1文字であり、周辺諸国は2文字の国号であった(例えば、朝鮮半島の国々は2文字が続き、明から「朝鮮」の国号を選ばれた李朝朝鮮が1897年になって「韓」という念願の1文字の国(「大韓」)になった)。「倭」という1文字の国号から「日本」という2文字となったのは、702年の遣唐使は663年に白村江で唐と戦い敗れた謝罪と国交回復の使いだったことが関係していると考えられる。

同時期の712年完成の最古の記紀『古事記』では原則として「倭」で、720年に完成した『日本書紀』では「日本」を使用している。例えばヤマトタケルは『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊。白村江の戦いの後、天皇制を中心にした国体を確立にした天武・持統天皇のころに「倭」から「日本」という国号も変更された。

国号「日本」は憲法では定義されていない。また、「にほん」か「にっぽん」かは法律的にも決まっていない(統一する必要が無いというのが日本政府の見解)。

「Japan」は中国語の音が由来とされる。13世紀にマルコ・ポーロが『東方見聞録』で「Cipangu」を紹介したことが有名である。「中国語の Jih-pŭn がマレー語の Jăpung, Japang」(オックスフォード辞典)となり、16世紀にポルトガル人によって伝えられたという説も有力である。
Japan
大韓民国 (韓国語/ハングル文字)
대한민국
韓国語名「대한민국(発音:テハンミングク)」は「대한(テハン)」が「大韓」「민국(ミングク)」が「民国」の韓国語表記。

古くは「朝鮮」と言ったが、1897年李朝の高宗が「三韓」に由来する1文字の国名「韓」を用いた「大韓」とするとした(中国では蛮国に2文字の国名を与え差別していた、1897年ごろは日清戦争(‐1895年)で清が敗れた後で拒否する力はなかった)
   「我邦乃三韓之地, 而國初受命, 統合爲一。 今定有天下之號曰‘大韓’, 未爲不可。」
「三韓」に関しては李氏朝鮮の歴史編纂書『朝鮮王朝実録』に中国の皇帝の言葉がある。
   「高麗時、呑竝馬韓、辰韓、弁韓、是謂統合三韓」

Koreaはマルコ・ポーロの『東方見聞録』における「高麗(Koryo)」に由来する。
Republic of Korea
朝鮮
民主主義
人民共和国
(朝鮮語)
조선민주주의인민공화국
朝鮮語名「조선민주주의인민공화국(発音:チョソン ミンジュジュイ インミン コンファグッ)」は「조선(チョソン)」が「朝鮮」、「민주주의(ミンジュジュイ)」が「民主主義」、「인민(インミン)」が「人民」、「공화국(コンファグッ)」が共和国。

『史記』や『漢書』に紀元前195年ごろに中国人が建てた朝鮮半島最古の国として「朝鮮」の記述がある。この「朝鮮」は地名から来たと考えられている。紀元前108年に前漢が「朝鮮」国を滅ぼした後に設置された楽浪郡の都(現在の平壌)は朝鮮県と呼ばれた。1392年に成立した李氏朝鮮は国号として「朝鮮」と「和寧」を提案し、明の皇帝が「朝鮮」を選び認めた。

第二次世界大戦後ソ連の占領下で社会主義化され「人民共和国」となった。

「Korea」は大韓民国参照
Democratic
People's
Republic of
Korea
中華
人民共和国
(中国語)
中华人民共和国
紀元前2000年ごろの気候変動によって遊牧民から農耕民へ時代が動く。中国においても遊牧民族と中原の農耕民族である漢民族との軋轢が生まれた。その結果、優位になった漢民族に「華夏」と呼ばれる民族意識が高まり「夏」に始まる漢民族王朝が出現した。歴代漢民族王朝は「華夏」、「中夏」、「中華」(「中国」)と変化しながらも同じ概念で漢民族と周辺の四夷(東夷、北狄、西戎、南蛮)を区別することで国体を維持してきた。領土の概念を持たない遊牧民族に対し、定住していた農耕民族が敷居を作った。いずれも自民族を世界の中心とする選民的な価値観を持った言葉である。
その後、チュルク人(宋)、モンゴル人(元)、満州人(清)などの支配を受けたが、領民という概念を中心とした遊牧民王朝が領民の移動や融合を禁止したりしたので漢民族はそのまま生き残った。
1911年の辛亥革命で清を倒した後の国名に「華夏」などが挙げられたが最終的に「中華」を取り、「中華民国」となった。1930年代からの国共内戦において、毛沢東が率いる中国人民解放軍が勝利をおさめ、1949年に共産党による一党独裁国家である「中華人民共和国」を樹立した。

「China」は紀元前200年ごろ中国を統一した「秦(Qin)」に由来する。サンスクリット語のCīna (चीन)がマハーバーラタ (紀元前5世紀) 及びマヌ法典 (紀元前2世紀) などのヒンドゥー教の聖典に使用されていた。ヴァスコ ダ ガマ第2回遠征(1502)に加わりインドに留まったポルトガル人デュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)の日誌に「China」と記述されたのが最初と言われる。
People's
Republic of
China
中華民国
(台湾)
(中華民国語)
中華民國
中華人民共和国を参照
Republic of
China)
モンゴル国 (モンゴル語)
Монгол Улс
モンゴル語国名「Монгол Улс(モンゴル・オルス)」の「オルス/ウルス(Улс)」は「領民」や「国」を意味する。

「モンゴル」は部族名に由来する。最初に記録として「モンゴル」が記されたのは中国史書でモンゴル高原に進出してきた「室韋」という部族集団に属する「蒙兀室韋」部族である。1084年に使者を送り『遼史』に「萌古国」という名前で記された。
1206年に称号を授かったチンギス・カンはモンゴル高原を統一し「イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)」を建国した。1271年クビライが国号を「大元(ダイオン)」と改めた。「蒙古」という2文字から1文字の国「元」とした。しかし、明に敗れて蒙古高原に撤退する。
清が倒れて独立を目指すがロシアと中華民国の間に位置したため、両国に翻弄される。1924年世界で2番目の社会主義国家であるモンゴル人民共和国となった。ソ連が崩壊すると、1992年に新憲法を採択して社会主義を放棄し、国名を「モンゴル国」に改めた。
Mongolia
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フィリピン
共和国
(フィリピン語/タガログ語)
Republika ng Pilipinas
スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世:Felipe II)の名に由来する。1542年、スペイン征服者ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによってラス・フィリピナス諸島と名付けられた。
フェリペ2世はスペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。彼の治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配した
Republic of the Philippines
ベトナム
社会主義
共和国
(ベトナム語)
Cộng Hoà Xã
Hội Chủ Nghĩa
Việt Nam
1802年ベトナムを統一した阮朝に清の嘉慶帝から与えられた国号「越南(ヴィエット・ナム)」に由来する(阮朝が提案した「南越」は皇帝が拒否した)。
青銅器の時代に越人(ベト族)が部族国家群を形成した。紀元前207年に南越国が成立。中国紹興の越に対し「南越」と名付けられた(越の末裔との説もある)。1001年に李朝が成立し、宋から「安南」の1054年国号を与えられたが、国内では「大越」を国号とした。中国の干渉の混乱の後、阮福暎が阮朝を興こした。

1946年からのフランスからの独立戦争の終結でベトナム民主共和国(北)とベトナム国(南)に分断、ベトナム戦争が勃発する。ベトナム戦争が北ベトナムと解放戦線の勝利に終わり、1976年初の南北統一国会の決議により「ベトナム社会主義共和国」が決定された
Socialist
Republic of
Viet Nam
カンボジア
王国
(クメール語)
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
クメール語国名ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア)のプレアは王の称号、リアチアナーチャックは王国と言う意味である。国名はカンプチア王国となる。

カンプチア(Kampucea)は建国伝説上の王の名前に由来する。紀元1世紀以前からインドシナ半島はインドと中国の中間の要所として栄えていた。インドからの影響が強くヒンズー教などが伝来していた。その頃は、フナン(「扶南」)という王国が支配していた。6世紀になるとフナンの属国でメコン川沿いにあった、チェンラ(「真臘」)が勃興し、7世紀にフナンを倒す。このチェンラ王朝がカンボジア王家の祖先とされている。伝説ではインドから来訪したバラモン(支配層)である ‎‎Kambu Swayambhuva‎‎がジャングルで‎‎ナーガ‎‎(Naga)の王女Somaまたの名Meraと出会う。二人は結婚するがSomaの父親は海の水を飲み干し、そこに現れた土地を持参として与えた。それがチェナンである。
KambuとMeraから生まれた民族がクメール(Khmer)であり、カンボジア人は自らをKambuの子孫Kampucheaと呼んでいる。

「カンプチア」を植民地支配していたフランス人がこの国の名を「Cambodge(カンボージュ)」と発音を表記し,英語では国を示す「ia(イア)」を用いて「Cambodia(カンボジア)」となった。

(Kambuはバラモンで見られる名前でインドの西にあるKambujaという地名もKambuに由来する)
Kingdom of Cambodia
ラオス人民
民主共和国
(ラーオ語)
ສາທາລະນະລັດ
ປະຊາທິປະໄຕ
ປະຊາຊົນລາວ
ラーオ語国名ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ(発音: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」。

「ラーオ」はタイ語で「人間」を意味する

漢時代に現在の中国雲南地域にタイ・カダイ言語を持つ民族、タイ族が住んでいたという記録がある。12世紀になると中国南西部にあったナンチャオ(南詔)王国が南に領土を拡大した。13世紀までにタイ族はモン族とクメール族の支配領域のインドネシア半島北部まで南下する。1050年頃モン族が西に移動したのを機にタイ族はその隙間を埋めるように南北に広く分布するようになモンゴル帝国が南下し、クメール王朝の支配力が弱まった。1279年にスコータイ王朝を建国した、スコータイ王朝の最盛期の王ラームカムヘーンが崩御し、ナンチャオ王国滅亡後、1353年タイ族の一派であるラーオ族によりビエンチャンを中心としたラーンサーン王国が建国された。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味で強国であった。しかし、18世紀には3つの国に分裂し弱体化しタイやカンボジアの支配下に入った。1887年フランス領となったが、1949年ラオス王国として独立。内戦を経てベトナム・サイゴン陥落を機に王制を廃止し、1975年ラオス人民民主共和国へ移行した。

「ラオス(Laos)」はフランス領時代フランス語で国名に「ラーオ人々」という意味で複数形Laosを使用したことに由来する。ちなみに英語ではLaoである。
Lao
People's
Democratic
Republic
ミャンマー
連邦共和国
(ビルマ語)
ပြည်ထောင်စု
သမ္မတ
မြန်မာနိုင်ငံတော်
ビルマ語表記ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်(発音:ピダウンズ・タンマダ・ミャンマー・ナインガンドー)。ピダウンズは「連邦」、タンマダは「共和制」、ナインガンドー「王国」、「国」。
「မြန်မာ(ミャンマー)」であるが、1235年の石碑に「မြန်မာပြည်」とある。「ပြည်」」は「王国」。「မြန်မာ」はラテン表記では「Mranma」だがr→yの転化が起こり「Myanma」と発音するようになった。このr→yの転化はビルマ語の他の語でも見られる。フォーマルには「မြန်မာ」を用いたが、口語体では第一音節が短縮化され「ဗမာ」「Barma」「Bama」となった。「မြန်မာ(Myanma)」は文語、「ဗမာ(Bama/Barma)」は口語とされる。

「မြန်မာပြည်」は「偉大な、強い国」という意味だそうだ。

ミャンマーとビルマの混乱。
旧来国名には正式名称「မြန်မာ(Myanma)」が使用されてきた。1824年からのイギリスとの3次にわたる戦争に敗れ植民地化される。この時、イギリスは英語名として「Burma」を使用した。
第一次世界大戦からイギリスからの独立運動が活発化した。1942年、タキン党のアウン・サンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共にイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでビルマ国が建国された。アウン・サンの主張により国名には「ဗမာ(Bama/Barma)」が採用された。1947年アウンサンが暗殺され、1948年ビルマ連邦として独立した。この時の国名が「ပြည်ထောင်စု မြန်မာနိုင်ငံတော်‌」で「မြန်မာ(ミャンマー)」が使用され、以降ビルマ語国名は「မြန်မာ(ミャンマー)」が現在まで続いている。しかし、ビルマ連邦の英語表記は「Union of Burma」であった。そこで、1989年当時の軍事政権はミャンマー連邦「Union of Myanma」へ英語国名の改名を行った。国連も変更を直ぐに承認した。この改名は、同年(1989年)にアウン・サン・スウ・チーを自宅軟禁するなどした、クーデターを起こした軍事政権の要求であったため、国や機関によっては対応が異なった。日本は直ぐに改名を承認した。アメリカは最近まで「Burma」を用いていた。さらに、当初アウン・サン・スウ・チーが軍政に対抗するため父親の押した「ဗမာ(Bama/Barma)」を主張し、改名に反対したため問題を複雑にした。アウン・サン・スウ・チーが解放され、民主化が進むにつれ、国連が承認した「Myanma」が使われるようになった。

英語の「Burma」は、16世紀か17世紀にインドの名称「Barma」からポルトガル語となった「Birmânia(ビルマニア)」に由来する。日本語の「ビルマ」はオランダ語の「Birma」に由来する。日本語の「ミャンマー」」は1989年の英語国名改名時に英語表記「Myanma」を発音表記したものである。
Republic of the Union of Myanmar
タイ王国 (タイ語)
ราชอาณาจักรไทย
タイ語国名ราชอาณาจักรไทย(発音: ラート・チャ・アーナーチャック・タイ)は、ラートチャは「王」、アーナーチャックは「領土」「帝国」、「タイ」はタイ族。

タイ人のルーツは中国南部で「ไทย(タイ)」は中国語の「大(dai)」に由来し、「立派な人」を意味する。タイ語では「自由人」を意味する。現在でも中国にはタイ・カダイ語族タイ・チワン諸語を話す少数民族「傣(ダイ/タイ)族」がいる(また、中国南部からベトナムに住むチワン族もタイ族である)。

漢時代に現在の中国雲南地域にタイ・カダイ言語を持つ民族、タイ族が住んでいたという記録がある。12世紀になると中国南西部にあったナンチャオ(南詔)王国が南に領土を拡大した。そして、13世紀までにタイ族はモン族とクメール族の支配領域のインドネシア半島北部まで南下する。1050年頃モン族が西に移動したのを機にタイ族はその隙間を埋めるように南北に広く分布するようになる。モンゴル帝国が南下しタイ族の北部の国「大理」が滅ぼされ、モンゴルの後押しを得てクメール王朝を追い出す形で1279年に南部にスコータイ王朝、1350年に北部にアユタヤー王朝を建国した。1769年にトンブリー王朝、1782年チャクリー王朝となり現在に至る。

「สยาม(サイアーム)」
タイは古くは「สยาม(サイアーム)」、日本語名「シャム」、英語名「Siam」という国名だった。「サイアーム」は周辺諸国の人等がタイ人をさして用いた言葉で元々タイ語ではない。ポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンのビルマ語碑文(1120年)、アンコールワットの刻文(12世紀頃)などに見える。これら周辺諸国は古くからインドの影響を受けていた。「サイアーム」はサンスクリット語のśyāma、「こげ茶色」「dark brown」に由来する(アッサムのサムなども同じ)。肌の色をさしたものと考えられている。

チャクリー王朝は1790年ミャンマーを撃退し、拡大した国名を「สยาม(サイアーム)」とした。1939年時の首相ピブーンは国名を「ไทย(タイ)」とした。1945年に「สยาม(サイアーム)」に戻ったが1949年「ไทย(タイ)」となり現在に至る。

英語で「Thailand」はタイ族(Thai)の領土、国(land)。
The Kingdom of
Thailand
シンガポール
共和国
(英語)
Republic of Singapore
(マレー語)
Republik Singapura
(中国語)
新加坡共和國
(タミル語)
சிங்கப்பூர் குடியரசு
公用語が4つある。英語名「Republic of Singapore (リパブリック・オヴ・スィンガポア)」、中国語名「新加坡共和国(標準中国語:シンチャーポー コンホークオ)、マレー語名「Republik Singapura(リプブリク・スィンガプラ)」、タミル語名「சிங்கப்பூர் குடியரச(スィンガップール・クディヤラク)」

サンスクリット語の「ライオンの町」を意味する「(सिंहपुर, (シンガプーラ)」に由来する。

この地は漁村で7世紀ごろは「テマセック(古ジャワ語で海の町という意味)」と称されていた。500年ごろスマトラに建国されたシュリーヴィジャヤ王国の王子、サン・ニラ・ウタマが1299年にシンガプーラ王国を建国した。その時の伝説が「シンガプーラ」の由来となっている。伝説によれば、王子は狩りの時に海の向こうに白砂のビーチを見つけた。王子は嵐にあったりしながらも(王冠を海に投げ入れ海を鎮めた)船で渡り、その地に到着する。狩りを始めるがそこで「赤い体、黒い頭、白い胸」の奇妙な動物を見つけ追うがジャングルで見失う。付き人に名前を聞くとサンスクリット語の「シンハ(ライオン)」と答えた。良い兆候とそこに王国を建国し「シンガプーラ」と名付けた。(実際にはマレー半島に野生のライオンが存在したことは無い)

別の伝説では、1389年シュリーヴィジャヤが滅ぼされた時シンガプーラに逃れた王子パラメスワラが当時のシンガプーラ王を殺害し王となるが、ライオンの玉座を作ったという。パラメスワラはマレー半島に進撃し1402年「マラッカ王国」を建国する。

ポルトガルはマラッカ王国を滅ぼし、シンガプーラも荒廃した。イギリスがシンガプーラの地理的重要性に着目し、名称も英語名「シンガポール」とし都市を建設する。シンガポールはイギリスの海峡植民地の主都となり発展する。第二次大戦後1963年「マレーシア連邦」の一員となるが、華僑が大半のシンガポールはマレー人と対立し1965年分離独立し、「シンガポール共和国」となった。
Republic of Singapore
マレーシア (マレーシア語)
Malaysia
(ラテン文字)
مليسيا
(ジャウィ文字)
マレーシア語はマレーシアで使用されているマレー語。表記はラテン文字が使用される。イギリスの植民地になるまではアラビア文字を基にしたジャウィ文字が使用された。

「Malaysia(マレーシア)」は「Malay(マレー/マレイ)」が「地名」、「sia(シア)」が「国」を表す。

1963年「マラヤ連邦」とシンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクが統合し「マレーシア」となった。「Malaysia(マレーシア)」は19世紀前半の地図ではオセアニアをオーストラリア、ニュージーランド、メラネシアを含む「Australasia」、ポリネシアとミクロネシアを含む「Polynesia」とそれ以外のフィリピン、スマトタ、ボルネオを含む島々の「Malaysia」の3つの大きな地域に分けた。100以上の地図を残したフランスの探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルが名付けた。ちなみに、マレー半島は「Malaysia」に含まれていない。

それ以前はマレー半島はマレー語「Melayu(ムラユ)」、英語「Malaya(マラヤ)」が使われていた。「マラヤ連邦」はマレー半島11か国からなり、マレー語では「Persekutuan Tanah Melayu」と「Melayu(ムラユ)」、英語で「Federation of Malaya」。

「Melayu(ムラユ)」はタミル語(南インド)の「山」を意味する「malai」と「都市」あるいは「土地」を意味する「ur」の合成「山の国」が由来と言われる。。また、同様の意味を持つサンスクリット語「Malayadvipa (マラヤドヴィパ)」に由来するという説もある。

500年ごろスマトラ南部にシュリーヴィジャヤ王国があった。南インドやスマトラのジャワ島のヒンズー教王国の攻撃を受け、イスラム教徒の建国などで衰退し、14世紀にシュリーヴィジャヤ王国は滅ぼされる。1389年最後の王子パラメスワラはシンガプーラ(現在のシンガポール)に逃れ、マレー半島を進み「マラッカ王国」を建国した。1414年パラメスワラはイスラム教に改宗しスルタンとなる。マラッカ王国はポルトガル、オランダ、イギリスに占領されされ、マレー半島のこの地域は「マラッカ」と呼ばれた。1874年植民地の連邦イギリス領マラヤと「Malaya」となる。1942年日本占領、終戦後1947年マラヤ連邦が成立した。
Malaysia
ブルネイ・
ダルサラーム国
(マレー語)
ڬارا بروني دارالسلام
(ジャウィ文字)
Negara Brunei Darussalam
(ラテン文字)
マレー語名「Negara Brunei Darussalam(発音:ヌガラ・ブルネイ・ダルッサラーム)」は「Negara(ヌガラ)」は「国」、「Darussalam(ダルッサラーム)」は「平和な土地」である。

「ブルネイ」は「船乗り」を意味するサンスクリット語「वरुण(varun)」に由来する。
中国では1225年に書かれた『諸蕃志』に「渤泥国」と記録されている。1365年に完成したマジャパヒト王国の叙事詩『ナガラクレタガマ』に「Bornei」とある。1368年に建国された最初のブルネイのスルタン王国は「Barunah」「Barunai」と呼ばれた。一方、ブルネイのある島の名前は、ガマ艦隊以降ヨーロッパ人が島のことを「Borneo」と発音表記し定着した。ちなみに1958年ニューヨーク発行の地図ではブルネイを「Burni or Borneo」、島の名前を「Borneo」としている。ところで、マレー語は子音だけの音は稀なので「Brunei」は珍しい。

「Darussalam(ダルッサラーム)」が付いている理由は不明(今後の調査)。

ブルネイ・スルタン王国は1500年ごろ全盛期を迎え、ボルネオ全島やフィリピン一部まで領土を広げた。しかし、ヨーロッパ人が来て、貿易国として魅力がない範囲に縮小されたが、生き残った。石油が発掘され豊かになったが、それゆえ独立が遅れ、1963年のマレーシアへの統合にも参加できなかった。イギリス財務官と銀行の怠慢による財政悪化を契機に1984年になって独立した。
Brunei Darussalam
インドネシア共和国 (インドネシア語)
Republik Indonesia
インドネシア語名「Republik Indonesia(発音:レプブリク・インドネシア)」の「レプブリク」は共和国。「Indonesia(インドネシア)」はギリシャ語のインド「Indós (Ἰνδός)」と島々「nèsos (νῆσος)」の合成語。

「Indonesia」は。オランダが東インド諸島をイギリスがマレー諸島を分割統治する条約(1824年)を結んだあとの1850年にイギリス人によって提案されたがオランダが拒否した(オランダ領東インド諸島とした)。1900年代に入り民族意識の高まりとともに、オランダへの反発から民族主義者の間で「Indonesia」が使用されるようになった。そして、1927年スカルノ率いる「Partai Nasional Indonesia(インドネシア国民党)」が結成され、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」で、国名に「インドネシア」選び、民族をインドネシア人として、言語はインドネシア語として統一し、独立を達成する、という決意を明確化した。この後、1942年に日本に占領されるが、日本軍の後押しで1945年8月19日に独立宣言を予定した。しかし、8月15日に日本が降伏したため、急遽8月17日に独立宣言(スカルノ邸前)、18日憲法制定を行った。この後イギリス・オランダとの独立戦争に突入し、1949年に独立を達成する。
Republic of Indonesia
東ティモール
民主共和国
(テトゥン語)
Republika
Demokratika
Timor Lorosa'e
(ポルトガル語)
República
Democrática de
Timor-Leste
テトゥン語名「Republika Demokratika Timor Lorosa'e(発音:レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)」は「Republika(レプブリカ)」が共和国、「Demokratika(デモクラティカ)」が民主制、「Timor(ティモール)」がティモール島、「Lorosa'e(ロロサエ)」が「日の出」「東」。「Loro(ロロ)」が太陽、「sa'e」が出るという意味。
ポルトガル語名「República Democrática de Timor-Leste(発音:レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レスト)」の「Leste(レスト)」も「東」。

「Timor(ティモール)」はマレー語・インドネシア語で「東」を意味する「timur(ティムール )」に由来する。マレー半島、スマトラ島、ジャワ島に連なる島々の東にある大きな島だからである。インドネシア語では「Timor timur」となる。このため、国連をはじめ多くの国や国際機関では公式にはその国の「東」という単語を使わず、ポルトガル語の「Timor-Leste」を国名として使用している(英語名参照)。

ティモール島には原住民がいたが16世紀にポルトガルが植民地化した。オランダが西から進出し、1859年西ティモールをオランダに割譲した。1916年に最終的な境界線が決定され、現在の国境となっている。オランダ領(西)ティモールは1949年インドネシアとして独立した。1975年ポルトガル領(東)ティモールは独立を宣言するがインドネシアが侵攻し併合を宣言した。国連がこの併合を認めず2002年に東ティモールは独立を達成する。
The Democratic Republic of Timor-Leste
南アジア top
インド (ヒンディー語)
भारत
ヒンディー語のभारत(Bhārat, バーラト)は「バラタ王भरत (Bharata)の子孫」であるバーラト族に由来する。
バーラト族はインド・アーリア人の部族のひとつ。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』によれば、十王戦争において、バーラト族は、スダース王率いるトリツ族とともに、プール族などの10の部族の連合軍に勝利し、パンジャーブ地方のを支配する。その後、プール族と連携し、混血が進みクル族となり、ガンジス川流域に覇権を確立し、全インドを征服したと言われる。
ちなみに、『イーリアス』、『オデュッセイア』とともに世界三大叙事詩と言われ、『ラーマーヤナ』と並び、インド2大叙事詩の1つでもある『マハーバーラタ』はバラート族の物語である。

英語の India は、インダス川を意味するラテン語のIndusに由来し、インダス川とそれ以東の土地をさす。Indusはサンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hinduš に由来する。
なお、憲法上の正式名称はIndian Sovereign Socialist Secular Democratic Republicである。

古く中国では身毒(『史記』)や天竺(『後漢書』)のような漢字が当てられていた。「印度」の漢字をあてたのは玄奘三蔵である。日本語の「インド」はこの「印度」に由来する。

インドでは紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族等)がパンジャーブ地方に移住し、ガンジス川流域を支配し、カースト制度が確立された。紀元前521年頃に始まったアケメネス朝ペルシア王、ダレイオス1世のインド遠征でガンダーラを征服した。王のの碑文に古代ペルシア語の Hinduš が表れる。紀元前330年頃、アレクサンドロス3世の東方遠征では、インド北西部のパンジャーブまで侵攻したが撤退した。この時、古代ギリシャ語表記Indusが使われた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ到達、既にインド北部地方はIndiaと呼ばれていた。ポルトガル領インド(Estado Português da Índia)から、デンマーク東インド会社(Ostindisk Kompagni)、フランス東インド会社(Compagnie française des Indes Orientales)を破りイギリス東インド会社(East India Company)がインドを支配した。1947年に独立し、भारत अधिराज्य (ヒンディー語 Bhārata Adhirājya)、インド連邦、Union of Indiaとなる。1950年に共和制となる。
India
バングラデシュ
人民共和国
(ベンガル語)
গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ
ベンガル語 গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ (Gônoprojatontri Bānlādēśa)。প্রজাতন্ত্রী (Projatontri)が共和国で গণপ্রজাতন্ত্রী (Gônoprojatontri)が人民共和国。বাংলাদ (Bānlāda)が「ベンガル(人)」で বাংলাদেশ (Bānlādēśa)が「ベンガル人の国」を意味する。
ベンガルは古代の国バンガ王国に由来する。バンガ王国はインド2大叙事詩の1つでもある『マハーバーラタ』に登場する。バンガ王国以前はこの地方は「太陽神」を意味するボンガ、バングと言われた。11世紀にはベンガル人の国を意味するバンガラデサと表記されていた。ちなみにベンガルは13世紀にアラブやペルシャ人による呼称で、それがヨーロッパに伝わった。

ベンガル地方は古くから文明が栄えていた。8世紀に仏教王朝が栄えたが12世紀にヒンドゥー教王朝となる。13世紀ころからイスラム教徒が進出してきた。16世紀には東ベンガルはイスラム教徒が多数派となった。
18世紀にはイギリスの植民地となる。民族運動が盛んになるとイギリスは1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割した。
1947年にヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域は東西に分かれたパキスタンとして分離独立する。東ベンガルは(東)パキスタンとなる。1971年にバングラデシュとしてパキスタンから独立する。
People's Republic of
Bangladesh
ブータン王国 (ゾンカ語)
འབྲུགཡུལ་་
ゾンカ語: འབྲུགཡུལ་་ (Druk Yul)は འབྲུག་ (Druk ドゥク)はチベット仏教の四大宗派の一つカギュ派の分派であるドゥク派に由来する。ドゥクはチベット語で竜のことである。Druk Yulは「竜の地」という意味。国旗や国章に竜が描かれている。

12世紀末、チベットの高僧ツァンパ・ギャレーが、寺を建立した際、突然雷鳴がとどろいた。雷は龍の鳴き声とされていたので、この寺を「ドゥク」と命名し、ドゥク派の開祖となった。1616年、ドゥク派は内紛を起こし、南北の2派に分裂し争った。これに敗れた南ドゥク派のガワン・ナムゲルは南方のモン地方に移り、そこにおいて政権を設立した。

英語のBhutanの由来は諸説ある。サンスクリット語の高地という意味の「ブーウッタンBhu-uttan」あるいはチベット(Bod)の端という意味の「Bhoṭa-anta」が有力な説である。17世紀のヨーロッパで発行された地図には山脈の北はBoutan、TibetあるいはTibetBudtanと地方名として記載されていて、別の国と認識されていなかった。1772年、ブータンはインドのクーチ・ビハール王国に侵入したがイギリス援軍に敗れ、チベットのパンチェン・ラマが調停に入った。この調停後、スコットランドの探検家ジョージ・ボーグルがブータンとチベットを二つの別の国として報告し東インド会社が公式にそれを認め、Bootanと名付けた。19世紀に入ってから地図上にBootan、Bhotan、Bhutanと記載されるようになった。
1907年ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立し、12月17日、ウゲン・ワンチュクが初代世襲制国王に選出され、ブータン王国(Kingdom of Bhutan)となる。
Kingdom of
Bhutan
ネパール連邦民主共和国 (ネパール語)
संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल
ネパール語संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल(saṅghīya loktāntrik gaṇatantra nepāl)はसंघीय(saṅghīya)が「連邦」、लोकतान्त्रिक(loktāntrik)が「民主の」、गणतन्त्र नेपाल(gaṇatantra)が「共和国」、नेपाल(nepāl)が国名。
Nepalは伝説の聖人"Ne"あるいは”Nemi"に守られた"pala"に由来する。サンスクリットでNepalになったと考えられている。Nepalは国(所)と民に使われた。

伝説で聖人”Ne"はカトマンズ盆地に王国を建国する。3世紀から4世紀からカトマンズ盆地に住む人々はサンスクリットの俗語(プラークリット)の”Newar"族と呼ばれ、13世紀にカトマンズ王国マッラ朝を建国する。
1559年小国ゴルカ王国が成立。ゴルカ王国は近隣王国を征服、カトマンズ王国を倒し、1769年にカトマンズ盆地を統一、ネパール王国を建国した。1814年の第4代王の時にネパールを統一する。
しかし、1846年、宰相ラナ家に実権を奪われる。1959年国王が復権し立憲君主国となる。2008年王政は廃止され、ネパール連邦民主共和国が誕生した。
Federal Democratic Republic of Nepal
パキスタン・イスラム共和国 (ウルドゥー語)
اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎
ウルドゥー語で اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎(Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)はکِستان‎(Islāmī)は「イスラム」、ہوریہ پاکِستان‎(Jumhūrī-ye)は「共和国」。پاکِستان(Pākistān パーキスターン)は国名。
پاکِ(Pak)は「清浄な」という意味でパキスタンは「清浄な国」という意味(イスタンは所、国)。

第一次世界大戦後イギリス植民地からの独立を目指す民族運動が活発になった。1930年3月にはガンディーは「塩の行進」を開始した。この年、ムスリム連盟議長ムハンマド・イクバールがムスリムがインド国内でまとまった領土を持つことを主張した、1933年に、チョウドリー・ラフマト・アリーによる北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。この中で「パキスタン」は構成する五つの地域、Punjab、Afghania、Kashmir、Sindhの頭文字とBaluchistanの"tan"の統一をも意味すると紹介されている。
1947年にヒンドゥー教徒地域をインド、イスラム教徒地域を(東西)パキスタンとして分離独立をする。しかし、1955年に東パキスタンはバングラデシュとして分離独立した。
Islamic Republic of Pakistan
アフガニスタン・イスラム共和国 (ダリ語)
جمهوری اسلامی افغانستان
ダリ語(アフガン・ペルシャ語)で جمهوری اسلامی افغانستان (Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)は جمهوری اس(Jomhūrī-ye)が「共和国」、 اسلام(Eslāmī-ye)が「イスラムの」を意味する。افغانستان(Afghānestān)は「アフガン人の土地」。
3世紀ごろの記録があり、現在アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人のことをアフガン人と呼んでいた。アフガンの由来は分かっていない。「山の民」とか地名に由来するなどと諸説ある。

「アフガニスタン」の記録は16世紀ムガール帝国創始者バーブルの『バーブル・ナーマ』に登場したのが最初と言われる。国名としてはバーラクザイ朝が1834年にアフガニスタン首長国としたのが始まりである。現国名はタリバン政権崩壊後2004年憲法により定められた。
Islamic Republic of
Afghanistan
イラン・
イスラム共和国
(ペルシア語)
جمهوری اسلامی ایران‎
ペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)は جمهوری(Jomhūrī-ye)が「共和国」、 اسلام(Eslāmī-ye)が「イスラムの」を意味する。 ایران(Īrān)は国名。
紀元前2000年ごろ中央アジアからアーリア人と自称する民族が南下してきた。アーリアとはサンスクリット語で「高貴な」という意味の「アーリア (ārya)」を語源とし、ペルシャ語で「アリイア (ariia)」とされる。アーリア人はイラン高原とインドへと二手に分かれて南下した。サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味のパルティア語「アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン(Ērān)」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。「エーラーン」からイスラーム時代に「イーラーン」に変化する。

イランは長くペルシアと呼ばれていた。イラン高原アンシャン地方にはペルシア語でパルスア、パールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族が定着した。このためその地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。これは古典ギリシア語ではΠερσίς(ペルスィス Persis )と呼ばれ、「ペルシア」はこのペルスィスに由来する。

1935年、皇帝レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請した。1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用い、国名はイランと定められた。
Islamic Republic of
Iran
スリランカ
民主社会主義
共和国
(シンハラ語)
ශ්‍රී ලංකා ප්‍රජාතාන්ත්‍රික
සමාජවාදී ජනරජය
(タミル語)
இலங்கை சனநாயக
சோஷலிசக் குடியரசு
シンハラ語で ශ්‍රී ලංකා ප්‍රජාතාන්ත්‍රික සමාජවාදී ජනරජය (Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya)は ප්‍රජාතාන්ත්‍රික (Prajathanthrika)は民主、 සමාජවාදී (Samajavadi)が社会主義 ජනරජය (Janarajaya)が共和国。ශ්‍රී ලංකා(Sri Lankā)のSriは「聖なる」でLankāは島の名称。
タミル語で சனநாயக(Jananayaka)は民主、சோஷலிசக்(Socialisa)は社会主義 குடியரசு(Kudiarasu)は共和国。 இலங்கை(Ilangai)は島の名称、Sri Lankaと同じ。

Lankaに関してはタミル語の「輝く」という意味のஇலங்கு(ilanku)に由来するという説とインド先住民の言葉の「島」を意味するLankaという説がある。後者が有力で、『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ王のラーヴァナが住まいするランカー(島)が登場する。一般用語の「ランカー(島)」が大きな特別な島として固有名詞化したものと考えられている。

スリランカは最近まで「セイロン」と呼ばれていた。「セイロン」は古タミル語のチェラの島という意味の「Cerentivu」に由来する。チェラは紀元前3世紀ごろ南インドからスリランカにやってきた民族(サンスクリットでナガ)だが、チェラやナガには「高地」あるいは「山」という意味がある。「Cerentivu」がアラビア語の「Serandib」、ペルシャ語の「Serendip」となりギリシャ語「Sielen」、ラテン語の「Seelan」となりヨーロッパに伝わる。ポルトガル語の「Ceilão」、フランス語「Selon」、英語の「Ceylon」となった。

紀元5世紀ごろインドからシンハラ族が移住、アヌラーダプラ王国を建国、、紀元前3世紀ごろ仏教が興隆する。紀元前2世紀ごろからタミル人の移住が始まった。15世紀にキャンディ王国が勃興する。16世紀ポルトガル領セイロン、17世紀オランダ領セイロン、18世紀イギリス領セイロン。1948年2月4日にイギリス連邦内の自治領(英連邦王国)として独立、国名はセイロン。1978年大統領制導入、現国名となった。
Democratic Socialist
Republic of
Sri Lanka
モルディブ共和国 (ディベヒ語)
ދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ
ディベヒ語 ދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ(Dhivehi Raajjeyge Jumhooriyyaa。ディヴェヒ・ラーッジェーゲ・ジュムフーリッヤー)。Raajje。Raajjeygeは「島々の」、Jumhooriyyaaは「共和国」という意味。Dhivehiは民族名で「島に住む人」の意で、モルジブを影響下に置いていたスリランカの言語であるシンハラ語の、මාල දිවයින (Maala Divaina, 「首飾りの島」) かタミル語のmaalai theevu (ガーランド、首飾りの島)に由来する。

「Maldives」はモルジブの国章に書かれている、スルタン国の正式名称「Al Daulat min al-Mahaldibiyat」のアラビア語のمحل دبيأت (Mahal Dibiyat、宮殿の島)に由来する。ヨーロッパに伝わりオランダ語で「Maldivische Eilanden」、イギリス支配下初期には「Maldive Islands」、後に「Maldives」となった。
Republic of Maldives
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カザフスタン共和国 (カザフ語)
Қазақстан Республикасы
カザフ語で、Қазақстан Республикасы(Qazaqstan Respublikasy カザクスタン・リスプブリカスィ)のРеспубликасы(Respublikasy リスプブリカスィ)は共和国、Қазақстан(Qazaqstan カザクスタン)は国名。Қазақ(Qazaq カザク)は民族名でチュルク語で「独立不羈の人」という意味、スタンは「所」、「国」。

カザフ高原は様々な遊牧民が支配した。12世紀には西をチュルクのキプチャクが西はチュルクのイスラム国カラハン朝がカラ・キタイ(西遼)に征服されていた。13世紀にモンゴルの支配下となる。その後チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配する。15世紀にジョチ・ウルスの東部で遊牧集団カザフがカザフ・ハン国を建国する。
18世紀には分裂し、ロシア帝国の統治を受ける。ロシア革命後、1920年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国となり、1925年にはカザフ自治ソビエト社会主義共和国が樹立された。ソビエト連邦崩壊後、1991年12月16日に、カザフスタン共和国として独立した。
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