豊かな農耕地域、メソポタミアの文明興隆、多くの民族による王国
メソポタミアは「川の間」、BCE9~7000年に自然農耕が始まった「肥沃な三日月地帯」の東端
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メソポタミアはギリシャ語で「川の間の地域」、チグリス(ティグリス)川とユーフラテス川の間の沖積平野である。メソポタミアからシリア・パレスチナにかけての北の山岳地帯と南の砂漠地帯に囲まれた豊かな土壌が広がる地域は「肥沃な三日月地帯」といわれる。気候が温暖で、BCE 9000~7000年紀に人類史上最初の農耕・牧畜が始まったと考えられている。特に冬に雨季を迎えるこの地域では、原産となる大麦の自然農耕が始まった。
肥沃な三日月地帯
世界史の窓 http://www.y-history.net/appendix/wh0101-003_1.html
BCE 5000年ごろ、下流で灌漑農耕が始まった(ウバイド文化)
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下流地域の海岸線は現在より内陸にあった。チグリス・ユーフラテス川上流は冬雨量が多く、下流では洪水が起こり沖堆積がで土地が興隆してきた。洪水は災害であったが豊穣をももたらした。自然神への恐れから神殿ができ、人々が集まり、食糧確保のための組織的農耕が生まれた。洪水を利用するために堤防と運河で治水・灌漑を行っていた。
この時期は新石器時代から銅器時代に当たり、多くの遺跡が発掘されているが文字は発見されていない。最初に発掘されたウル(Ur)近郊の地名からウバイド文化と呼ばれる。ウバイド期は堤防・運河造成や治水・灌漑を安定に管理・運営するため社会階層ができたと考えられている。初期の神殿も発掘されている。この文化は南から北へと広がっていった。
ウバイド文化の範囲
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ウバイド文化後期の土器(ボストン美術館所蔵)
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BCE 3500年ごろ、シュメール都市国家成立と青銅器と楔形文字のシュメール文明開化
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メソポタミア南部、チグリス・ユーフラテス川河口付近に城壁のある都市国家が発達した。BCE 3800年頃気候変動で乾燥地帯が広がり耕作可能な地域が減ったことが遺跡から分かっている。このため民族間の争いが増え、それに備え集落を守るために都市国家が発達したと考えられている。BCE 2700年ごろまでにウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家を形成された。
これらはシュメール語を使うシュメール人が築いたもので驚異の文明を開花させた。シュメール人に関してはまだ素性が分かっていない。シュメール語は周辺のセム語系とは全く異なり類似の言語は今のところ発見されていない。また「シュメール」はセム語系のアッカド語であり、シュメール人は「キエンギ」(君主たちの地)と呼んでいた。
都市の中心となる神殿はジッグラトと呼ばれる巨大な構造物となった。都市は城壁で守られ歩兵を中心とする軍隊が編成された。また、シュメール人は戦車を発明した。
BCE 3000年頃、銅にすずを混ぜる青銅合金の製造法が発見され、青銅製の武器が作られた。青銅を使った武器により支配関係が広域化し、BCE 2900年頃都市国家をまとめる王朝が成立した。
BCE 2800年頃の初期王朝は中流地域のキッシュを中心としたが、BCE 2600年頃には下流のウルクに戻った。シュメール王国はオリエント文明の礎となる様々な分野で文化を発展させた。
しかし、都市国家間の争いが絶えず、BCE 2300年頃のアッカド王サルゴンによるメソポタミア統一で敗れるが、その後、BCE 22世紀~21世紀の群雄割拠の中メソポタミアを支配する。そのウル第3王朝の創設者ウル・ナンムによって、ウル・ナンム法典制定され、のちのハムラビ法典に大きな影響を与えた。しかし、西方遊牧民アムル人などの侵略に疲弊し、BCE 2003年古エラム王によって滅ぼされた。
シュメール文明の最大の発明の一つは文字であった。シュメール遺跡において発掘される特徴的な遺物は円筒印章であった。粘土に押し付けながら回転させることによって図柄を転写した。
BCE 3200年ごろ、楔形文字の基となったウルク古拙文字が生まれた。尖らせた葦で粘土に文字を掘った。その後、変遷を経てBCE 2500年頃楔文字の体系が完成する。ウルク第一王朝時代の王ギルガメシュを主人公にした『ギルガメシュ叙事詩』など優れた文学も残した。
数学も発展し、BCE 3000年頃には、度量衡などに関する記録がある。60進法が整理され、天文学の分野が発展した。冥王星を観測していたことも明らかになった。分数や小数の概念も発明され、徴税や配分などの管理、農業における耕地面積の計算、建築などに用いられた。
シュメール神話はメソポタミアの神話の基となり聖書の創世記として後世に伝えられることになった。ノアの箱舟やバベルの塔などもシュメール時代の大洪水やジッグラトを基にしている。
シュメールの範囲
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チョガ・ザンビール遺跡のジッグラト
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ウルのスタンダードに描かれたチャリオット(戦車)
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シュメールの神々
http://onefuriousllama.com/2013/06/
動物と戦う英雄を描いた円筒印章(左)とその印影
マリのイシュタル神殿で発見、紀元前2600年頃の初期王朝時代、ルーブル美術館所蔵
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ウルク古拙文字(BCE 3200~3000年)
the Oriental Institute of the Universty of Chicago/CDLI
http://cdli.ucla.edu/collections/oi/oi.html
形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板
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BCE 2300年頃、アッカド帝国によるメソポタミア統一
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BCE 2500年頃最も古いセム語であるアッカド語を話すアッカド人がメソポタミアの南部バビロニアの北部地域に住み着いた。BCE 2300年頃アッカドのサルゴン王は膨張するシュメールを征服し、バビロニアを統一する。以降バビロニアの王は「アッカドとシュメールの王」と呼ばれる。サルゴンは兵を進めメソポタミアを統一しアッカド帝国を創始し、地中海まで進出した。アッカド王国によりメソポタミアではアッカド語が公用共通語となる。
BCE 2300年頃のアッカド帝国
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BCE 1894年、アムル人が古バビロニア王朝成立
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メソポタミアを統一したアッカド王朝衰退後、西方遊牧民のアムル人がメソポタミアに侵入してきた。また、アムル人は傭兵などでシュメールやアッカドの都市国家に浸透していった。そして、BCE 2000年頃、シュメール王朝崩壊後にイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝を建てた。アムル人はアッカドやシュメールの文明を取り入れメソポタミアに同化していく。
BCE 1894年、アムル人スムアブムが都市国家バビロンに王朝を建てた。この王朝は古バビロニアと呼ばれた。第6代の王、ハンムラビの時勢力を拡大、BCE 1757年、メソポタミアを統一し、バビロニア帝国を樹立した。ハンムラビは『ハンムラビ法典』と呼ばれる体系化された法典を確立した。、BCE 1595年にアムル人のバビロン王朝はヒッタイト帝国の外征の攻撃を受け崩壊した。
ハンムラビ バビロニア, BCE 1792年 - BCE 1750年
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ハンムラビ法典に描かれているハンムラビ(左側)、右側の王座に座っている人物は太陽神シャマシュ
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ハンムラビ法典が記録された石棒(->裏側)、ルーブル美術館所蔵
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BCE 1595年のヒッタイト王国のメソポタミア外征の後カッシート王国が支配する
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ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族に属する言語を使用する、BCE 18世紀頃アナトリア北部に建てられた王国。BCE 14世紀にヒッタイト王国はその最盛期を迎え、遠くメソポタミア北部まで外征し征服した。その混乱のなかカッシーナ人がバビロニアを支配するようになった。カッシートはエジプトとの外交書簡、「アマルナ文書」で知られる。アマルナ文書は、エジプト中部のナイル川東岸アマルナで発見された楔形文字の書かれた粘土板文書。多くは、エジプト第18王朝のファラオであったアメンヘテプ4世時代(在位:BCE 1353年?頃~BCE 1336年?頃)の外交政策と国際関係を示した史料で、BCE 14世紀の古代オリエントを知るため重要な資料である
アマルナ文書 EA161
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BCE 745年、アッシリア帝国によるオリエント統一とアッシリア文化の開花
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アッシリアはBCE 20世紀以前からメソポタミアの北方の都市アッシュールを中心とした王国であった。BCE 900年頃からアッシリアは拡大をはじめ、BCE 745年即位したティグラト・ピレセル3世の時代にメソポタミア全域を支配した。その後、エジプトも征服し大帝国を形成する。しかし、BCE 609年、新バビロニアとメディアの攻撃で崩壊する。オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディアの4王国に分立した。
アッシリアではその富により多くの文化が開いた。アッシュールバニパルの図書館史料は、古代オリエント史を調べる上で貴重な史料である。
宮殿の浮き彫り彫刻は一級の史料であるとともにアッシリア芸術の最高傑作といわれる。また、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像が有名である。
アッシリアの版図の変遷
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アッシリアの人頭有翼牡牛像
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BCE 625年、カルディア人の新バビロニア建国
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BCE 625年セム語族カルディア人の王、ナボポラッサルはアッシリアからバビロンを奪取し新バビロニア王国(カルディア王国)を建国した。2代目王ネブカドネザル2世はBCE 606年、カルケミシュの戦いでネコ2世率いるエジプト軍を撃退し、新バビロニアの最盛期を築く。イシュタル門や空中庭園などの建設で有名であり、またユダ王国の離反に対して二度の遠征を行いこれを滅ぼし、バビロン捕囚が行われた。新バビロニアはBCE 539年、アケメネス朝ペルシア軍によって滅ぼされた。
新バビロニアとリディア、メディア、エジプトの四大国
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イシュタル門のライオンのレリーフ ペルガモン博物館所蔵
ペルガモン博物館
ネブカドネザル2世のころの新バビロニア
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BCE 539年、ペルシャ帝国(アケメネス朝)がメソポタミア全域を支配
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アケメネス朝キュロス2世により、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、息子カンビュセス2世(カンブジャ)がエジプトを併合して、BCE 525年古代オリエントを統一した。BCE 522年に君主となったダレイオス1世(ダーラヤワウ)は北西インドからマケドニア・トラキアまで最大領土に拡大した。領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。
アケメネス朝の版図 紀元前500年時点
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ダレイオス1世
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古代メソポタミアの暦の歴史
シュメールでは史上初の灌漑農耕が始まり、太陰暦を使用していた
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大麦の灌漑農耕を順調に行うために暦が必要であった。太陽が西の空に沈んだ直後にでる新月の出る日を月の最初とする太陰が使われていた。大麦の収穫の周期から1年は12ヶ月だった。春分・秋分・冬至などは知られていたと考えられるが、太陽や天文学との関連を示すものは出土されていないという。
月の名前は都市国家ごとに定められ地域に共通した名前は無かった。また、29日か30日かはあらかじめ決まっていたわけではなく新月をもって次月と神官が決定していたと考えられている。12ヶ月は354日であった。農耕の管理には太陽との動きに連動させる必要があった。閏月は定期的に決められたものではなく天体の観測から神官そして王によって定められた。。
シュメールの一年は夏と冬の2シーズン、バビロニアに引き継がれる
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大麦は初冬に種を蒔き、冬の雨季に根を張り、乾季に入ると成長し、初夏に収穫というサイクルである。シュメールでは大麦の収穫する頃(akiti-Sekinku)と種蒔きの頃(akiti-Sununum)にAkituといわれる祭りが行われていた。シュメールは2シーズン制で、大麦の収穫祭は夏シーズンの始まりの日、大麦種蒔祭は冬シーズンの始まりの日であった。暦は収穫祭の日から始まるが農耕のサイクルである年度は種蒔祭を最初の日としていた。
シュメールでは日にちは「何月何日目、王が何かを行った年」
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シュメールの粘土板には楔形文字で日にちがしるされている。
上の粘土板は下から2行目に「穀物の種の月(6番目の月)」「8日過ぎた日」、最下の行に「Enki神の船が完成した年」と記されている。
ナツメヤシの収穫数量の記録
ブラウン大学 http://library.brown.edu/exhibits/archive/focus/cuneiform/
バビロニアではぎょしゃ座の「カペラ」を観測することで新年を決めていた
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古バビロニアでは春分の頃に黄色く目立つ星、「カペラ」が日暮れの西の空にあった。「カペラ」と新月が出会う時を新年の始まりとしていた。つまり、春分の日に近い頃の新月を新年としていた。そして、「カペラ」と新月が合わさった年から3年目は1太陰暦月遅らせた3日目に再び2つが合わさることが知られていた(11x3-29.5=3.5)。「カペラ」と新月が近くで出会うように閏月が入れられたが、閏月に関しては神官そして王がその都度決めていた。
カペラ、冬のダイヤモンド
スタディスタイル「(日本で見える)冬の星座」の図に文字・線追加
http://www.study-style.com/seiza/winter.html
バビロニアでは235太陰暦月が19年(太陽暦年)であることが発見されていた
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「カペル」と新月の観測から19年(太陽暦年)に7回の閏月を挿入すれば精度良い周期が得られることが知られていた。実際、19年で2時間の誤差であった。ギリシャにおいて導入されたとき提案した数学者の名前が冠され「メトン周期」と現在でもいわれているがが発見したのはバビロニア人であった。ただ、閏月は神官と王で決められ、定期的な閏年ではなかった。
ペルシャ帝国(アケメネス朝)のダレイオス1世が19年周期の閏年を定めた
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メトン周期の7か月の閏月に関しBCE 503年にダレイオス1世が閏年を定めた
19年周期の閏月
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関連する暦
ユダヤ暦
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バビロン捕囚の時使用していたバビロニア暦がユダヤ暦に使用されている。閏月や月の名前も引き継がれた。
古代ユダヤには、年が春に始まる宗教暦(「教暦」「新暦」)と、秋に始まる政治暦(「政暦」「旧暦」)があったが、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、現代のユダヤ暦も政治暦に準拠している。新年は7月1日(1st day of Tishrei)である。
バビロニア暦とユダヤ暦の月の名前
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関連事項
太陰暦では一日は夕方から始まる
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太陰暦では新月が日の入り後西の空に出る時を月初めとしていたため日の入り後から一日が始まる。
バビロニアで7曜週が生まれた
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古代バビロニアでは、毎月新月の日から7、14、21、28日目が休日であった。これは月の上弦、満月、下弦、新月に相当する。特に15日の満月の日はシュメールではSa-Bat、バビロニアではSapattumあるいはSabattuといわれ安息日のSabbathの由来となった。ユダヤの過越祭(Pesacha)と仮庵祭(Sukkoth)がユダヤ暦の15日から始まるのに関係している。また、週の最初の日は土曜日(サバット)であった。
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] メソポタミアの天文の歴史と日食/月食の記録、http://www.kotenmon.com/aeo/mesopotamia.htm
[3] http://www.livius.org/caa-can/calendar/calendar_babylonian.html
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2015.11.26] ORIGINAL