春分・秋分
・ 天文学の「春分・秋分」
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天文学的には「分点の方向」に太陽が来た時を春分・秋分と言い、それが起こった瞬間の日を「春分日・秋分日」という。
地球の重心を通り自転の軸に垂直な平面を赤道面という。簡単に言うと赤道を含む平面である。
太陽の周りを回る地球の軌道の平面を公転面(場合によっては黄道面)という。
赤道面と公転面が交わる線を「分点の方向」という。この分点の方向が太陽を向いた瞬間を「春分・秋分」という。春に起こる瞬間を「春分」、秋に起こる瞬間を「秋分」という。
赤道面と黄道面は歳差・章動によって変動するので、実際にはそれらを考慮して「春分・秋分」は決められる。
このように春分・秋分は自転に関係なく決定されるので、起こった瞬間の地球上の時計の時間は地域によって異なる。このため、春分日と秋分日は1日異なる地域があるのが普通である。これに対し「春分の日・秋分の日」は「春分日・秋分日」を参考に人為的に決められた日である。
赤道面と黄道面で定義される春分と秋分管理人
・ メソポタミア、太陰太陽暦の「春分・秋分」
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月の満ち欠けを単位とする太陰暦に季節のずれ補正を取り入れたのが太陰太陽暦である。メソポタミアが発祥と言われる。メソポタミアでは種蒔きや収穫など重要な儀式は春分や秋分を基準にした官暦で決められた。春分や秋分などは星の観測で決められ、特に春分は「カペラ」の位置で決められた。官暦では春分日か秋分日を新年としていた。
一方、太陰暦の民間暦は春分の日近くに夕方西の空に昇る「カペラ」と新月(西の空に夕方昇る)が出会う時を新年としていた。
・ 二十四節気の「春分・秋分」
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中国は太陰暦を暦として使用してきた。新月の朔日から次の新月の前の日の晦日の期間を暦月という。2000年以上前から、暦と季節のずれを修正するために季節と暦の調整をする二十四節気が使用されてきた。
春秋戦国の時代には冬至を含む月を「建子」と呼び続く月に十二支を割り当てた「月建」が用いられていた。夏・殷・周では年の初めの月を「建寅」(3の月)・「建丑」(2の月)・「建子」(1の月)としてた。これを夏正・殷正・周正の三正という。これは王朝を倒すと全王朝の暦を使わないようにしたためである。秦もこの流れに従い年号は「建亥」で始まるとしたが民衆暦は夏正を採用した。これ以降民衆暦(農暦)は2000年に渡り夏正が採用されて今日に至っている。
春分・秋分に関しての記述は、周に成立されたとされる『書経(尚書)』にある。『書経』の「堯典」には帝堯が、四方の神ともいわれる義氏と和氏に対して、日の長さと星の見える時期により、暦を定め国土を治めるよう命じたとされている。春分、夏至、秋分、冬至は殷仲春、殷仲春、殷仲秋、正仲冬と記されている。
日中、星鳥、以殷仲春(昼と夜が同じ長さで、「鳥」の星が見えたら「春分」の日とせよ)
日永、星火、以正仲夏(日が長く、「火」の星が見えたら「夏至」の日とせよ)
宵中、星虚、以殷仲秋(夜と昼が同じ長さで、「虚」の星が見えたら「秋分」の日とせよ)
日短、星昴、以正仲冬(日が短く、「昴」の星が見えたら「冬至」の日とせよ)
朞三百有六旬有六日、以閏月定四時、成歳(一年の日数を三百六十六日とし、閏月を入れて暦が四季と合うように定めよ)
[Wikipedia]
なお、仲は真ん中の意味であり、仲春は春の真ん中の意味である。このことから、周末期の戦国時代には冬至と春分の中間を「立春」と名付け、以下、「立夏」「立秋」「立冬」が季節の始まりとして決められた(『呂氏春秋』)
前漢の『淮南子』に二十四節気の全部の名称が表れており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。例えば立春と春分の間を3等分にしたのは暦月との対応が容易だからである。「冬至」は「建子」、「大寒」は「建丑」に対応する。このように月に対応した二十四節気を「中気」といい、その間を「節気」という。ところが暦月は月の満ち欠けの約29.5日周期、中気は約30日であり、年によっては中気が暦月に現れないことがある。この時閏月を挿入することでそのずれを解消できる。秦以降は夏正が使われたため雨水の前の新月が新年朔日となった。このため「立春」が新年の前の事もあった。
暦月と二十四節気管理人
・ 平気法・定気法の「春分・秋分」
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太陰暦の中国では、季節と暦の調整をする二十四節気が使用されてきた。古代においては二十四節気は冬至を起点にしており、春分・秋分は冬至と次年の冬至の期間の1/4あるいは3/4の日とされた。これを平気法あるいは恒気法という。
清時代以降、実際の太陽の動きと二十四節気を合わせるため、太陽の黄道上の位置で春分・秋分を決める方法が採用された。春分を黄道上の基点(0度)とし、黄道を24等分(15度)とし、その地点を太陽が通る時で二十四節気とした。これを定気法という。国立天文台が発表する二十四節気は定気法が用いられている。
二十四節気国立天文台http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/
・ 天動説の「春分・秋分」
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紀元前6世紀のギリシャ時代には地球が丸いことは認識されていた。天体の動きに関してはいわゆる天動説が長い期間信じられていた。
天動説では星がある球状のドーム(天球という)を想定し、地球は天球の中心にあるとした。地球は不動であり、天球が周期1日で回転しているとした。
太陽は天球の星座に対し毎日位置が少しづつずれ、一年で元に戻ることが観測された。この太陽の天球上の軌道が黄道である。地球の重心を通り天球の軸に垂直な面を赤道面という。春分・秋分は赤道面の位置に太陽が来た時である。
黄道上の太陽の位置は春分の日の位置を0度とし夏至の位置を90度、秋分の位置を180度、冬至の位置を270度とする一周360度の黄経で表される。
天動説
春分の日・秋分の日
・ 日本の祝日「春分の日・秋分の日」
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国民の祝日としての「春分の日・秋分の日」は1948年に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号)によって制定された。それには「春分の日 春分日」「秋分の日 秋分日」とだけあり、春分日や秋分日の定義は何も記載されていない。
実際には前年2月に発行される国立天文台の『暦象年表』に基づき閣議決定される。
「国民の祝日に関する法律」第2条によれば春分の日の趣旨は「「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」、秋分の日の趣旨は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」
この日本独特の祝日は、お彼岸の中日である春分と秋分の日に宮中で春季皇霊祭と秋季皇霊祭が斎行されたことによる。明治政府は、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」において春季皇霊祭と秋季皇霊祭として国民の祝日とした。戦後、「春分の日・秋分の日」として改めて祝日制定された。
・ シルバーウィーク
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ハッピーマンデー制度により本来9月15日だった敬老の日が9月第3月曜日となった。また、1985年には『国民の祝日に関する法律(祝日法)』に、「『国民の祝日』に挟まれた日は休日」という改正がなされた。このため、秋分の日が水曜日の場合、火曜日は敬老の日と挟まれるため休日となる。日曜日と合わせ4連休、土日休日の場合は5連休となる。シルバーには高齢者の意味もあるため、これをシルバーウィークと呼ぶことが定着した。更に、秋分の日が火、木、金でも有給休暇を取ることで連休にできるためシルバーウィークと呼ぶ人もいる。この場合はゴールデンウィークに対して用いられる。また、秋分の日が金曜日となった場合週休二日制で土日が休みの場合3連休となる。敬老の日の次の月曜日が秋分の日となった場合は2連休あるいは3連休が連続して起こる。なお、秋分の日が敬老の日と重なるのは29世紀までないとされている。
シルバーウィーク管理人
・ お彼岸の中日
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お彼岸は、夕日の土着信仰と西方極楽浄土が結びついた日本固有の行事である。春分秋分のほぼ真西に沈む夕日を見て極楽浄土を思い、そこを望み、行った故人をしのんだ。お彼岸は春分日あるいは秋分日を中日とする7日間である。お彼岸の項参照。
・ イランのノウルーズ
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ペルシア(イラン)では春分日のノウルーズと秋分日のミフラガーンという祭日が祝われていた。暦としてはアケメネス朝時代までバビロニアから伝わった太陰太陽暦を用いていた。イラン高原を支配したササン朝(226年 - 651年)から、エジプトから伝来した太陽暦を取り入れ、ノウルーズとミフラガーンのどちらかを新年とする暦とした。暦はゾロアスター教の拡散とともに広がり、現在でもイランをはじめ中央アジアの国々ではノウルーズ(春分日)が新年の祝日となっている。現在でもノウルーズを祝う民族は多いが、イランだけではなく、ソビエト連邦から独立した中央アジア5か国ではいずれも国家の祝日としている。トルコではクルド人の祭日として知られ、国民融和のための休日となっている。国際連合総会は、2010年にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認している。
・ インド国定暦
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メソポタミアから春分前後の新月を新年とする太陰太陽暦が伝わりヒンドゥー暦として広く使用された。しかし、各地に様々な改定がなされ混乱していた。1957年インド政府は春分の日を新年とするインド国定暦を定めた。春分の日は平年がグレゴリオ暦の3月22日、閏年は3月21日とした。ちなみに、それぞれの月の長さもグレゴリオ暦とは異なる。
過越祭、復活祭
・ 過越祭
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過越(ペサハ)は旧約聖書に記載されているユダヤ教の祭日。ユダヤ人(イスラエルの民、ヘブライ人)たちが預言者モーセに率いられてエジプト新王国から逃亡(「出エジプト」)した日、神の約束通り、死を運ぶ天使が戸口に印を付けたユダヤ人の家を過ぎ越してエジプトの民だけに訪れたという旧約聖書に由来する。
この日はユダヤ暦ニサン15日である。ユダヤ暦はバビロン捕囚の時使用していたバビロニア暦を引き継いでいて太陰太陽暦である。春分の日に近い新月が新年の始まりであり1月をニサン(Nisan、バビロニア語ではNisannu)という。さらに、14日夜(太陰暦は日没で始まるので15日)は満月となり、必ず春分の日を過ぎた日となる。ニサン15日(14日夜)は「春分の日が過ぎた最初の満月の日」である。
ちなみに古代バビロニアでは、毎月8、15、22、29日目が休日であった。これは月の上弦、満月、下弦、新月に相当する(特に15日(14日の日没後、満月)はシュメールではSa-Bat、バビロニアではSapattumあるいはSabattuといわれユダヤの安息日のSabbathの由来となった)。
駐米イスラエル大使公邸でのペサハ(過越しの祭り)ホサナキリスト教会・聖書広場
・ 『出エジプト記』と「過越」
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『出エジプト記』は旧約聖書の二番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。エジプト脱出(1~19章)とシナイ山での契約(20~40章)が二つの大きなテーマである(このシナイ山での契約を『旧約』といい、これに基ずく聖書を『旧約聖書』という)。エジプト脱出は前14世紀末~前13世紀のエジプト新王国第19王朝の頃と言われるが旧約聖書以外に記録・古書は無い。
アブラハムの孫に当たるヤコブの一族が、飢饉に遭遇し、パレスチナから豊かなエジプトに移住した。しかし、人数が増えたユダヤ人(イスラエル人)に脅威を感じた新ファラオ(ラメセス2世)はユダヤ人を奴隷として使役するとともに、生まれた男子を皆殺しにすることを命じた。アブラハムの子孫であるモーセだけはパピルスの船に乗せられ足の茂みに置かれたところをファラオの王女に助けられた(1~4章)。
ユダヤ人を酷使するエジプト人を殺し砂漠へ逃げていた、成長したモーセに、神は、エジプトに戻りユダヤ人を救い出し、神が用意したカナンの地に連れて行くよう命じる。エジプトに戻ったモーセは、イスラエルの民を解放するようファラオと交渉するが、ファラオは拒絶する。そこで神は、エジプトに対して「十の災い」をもたらす(5~12章)。
1.水を血に変える
2.蛙を放つ
3.ぶよを放つ
4.虻を放つ
5.疫病を流行らせる
6.腫れ物を生じさせる
7.雹を降らせる
8.蝗を放つ
9.暗闇でエジプトを覆う
10.初子(長子)を皆殺しする
その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子(母親の胎盤から初めて生まれた子)を撃つ」というもの。神は、災いが及ばないように「家族ごとに傷のない羊をほふり、その血を門柱と鴨居に塗る(ほふられた羊は主へのいけにえとして火で焼き、その日にすべて食べる、朝まで外に出てはいけない)」ことをモーセに伝える。そして、戸口に羊の血による印のあったユダヤ人の家にはその災いが臨まなかった(過ぎ越された)。これが「過越」の由来である。
この後、エジプトを脱出したユダヤ人たちはエジプト軍に紅海の縁まで追いつめられる。この時、モーセにより葦の海が割られユダヤ人は渡ることができた(エジプト軍は海が閉じて壊滅した)。そして、カナンの地に着き、「十戒」「シナイ山の契約」となる。
The Angel of Death and the First Passover (1897 by Charles Foster)
・ 過越祭・除酵祭
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聖書には「過越」を忘れないように祭りの規定が書かれている。下記の「種を入れないパン」を食べる1週間を「除酵祭」という。詳細は下部の聖書引用を参照
1.過越の起こった日(ニサン15日)に毎年主の祭を行うこと
2.祭りを代々にわたって不変に続ける
3.祭りの日に酵母を取り除き、7日間酵母がを入れないパンを食べる
4.最初の日と第7日に聖なる集会を開き食事の用意以外の仕事をしてはいけない
5.除酵祭を守る
過越祭は、ユダヤ人(神の民)を選んで神が救ったこと(過越)を代々伝えるユダヤ人の重要な祭り。その伝達は食事の時に行われる。祭りの食事は聖書にしたがって進められる。
ロースト羊、種なしパンと苦菜が聖書に書いてある食事である。
「肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパン(マッツァ)を苦菜(マーロール)を添えて食べる。」(『出エジプト記』12章8節)。
実際には、ユダヤの伝統的なハロセット(りんごなど果物のすりおろしにナッツをいれたもので、れんが色をしている)、苦菜(わさび+玉ねぎ)、パセリ(セロリ)と4杯の葡萄酒が加わり、神殿崩壊の時(AD 70年)に「子羊のすねの骨」「ロースト卵」が加わった。
『出エジプト記』12章の終わりの部分には、過越の食事に参加資格が書いてある(12章43~45節)。「割礼を受けた者」だけが参加できる。
過越の食事次第(ペサハのセーデル)
( 1)「聖別の杯」祈りの朗読の後、ブドウ酒を飲む
( 2)「手洗いの儀式」
( 3)「カルパス」パセリを塩水に浸して食す。塩水は出エジプトの紅海の海の水。
( 4)「ヤーハツ」種なしパン(マッツァ)を割る儀式。3枚重ねられたマッツァの真ん中を取り半分に割る。その内の大きい1枚をアフィコーメンといい白い布でくるむ。
( 5)「裁きの杯」出エジプトの話(マギッド)、4つの質問をして二回目のブドウ酒を飲む
( 6)「手洗いの儀式」(二回目)
( 7)マッツァの祈り
( 8)苦菜を食する
( 9)マッツァを取り、苦菜を挟んで食する。
(10)食事
(11)「ツァフン」取り分けたマッツァ(アフィコーメン)を食す
(12)「贖いの杯」祈りをささげ、三回目のブドウ酒を飲む
(13)「賛美の杯」四回目のブドウ酒を飲む
(14)「来年こそはエルサレムで」と声にして誓う
15世紀の過越祭Wikipedia
現代の過越祭Wikipedia
「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。
『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。 もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。閉じるその小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。
それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。
その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。
あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。』」
モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」
(『出エジプト記』12章01-28節)
・ 「過越祭」と「最後の晩餐」
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「最後の晩餐」は「主の晩餐」とも言い、キリスト教の新約聖書に記述されているキリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食、またその夕食の席で起こったことをいう。
「最後の晩餐」と「過越祭」は関連あるが、日にちに関して福音書で相違があることが知られている。
「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 」(『マタイによる福音書』26章17~18節)
「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 」(『マルコによる福音書』14章12~16節)
「イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 」 (『ルカによる福音書』22章08~16節)
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(『ヨハネによる福音書』13章01-02節)
「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」(『ヨハネによる福音書』18章28節)
「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 」(『ヨハネによる福音書』19章14節)
「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」(『ヨハネによる福音書』19章31節)
「最後の晩餐」の夜が明けた昼間(夕方)キリストはゴルゴタで磔刑により処刑される。そして、その日を含めて3日後の朝に復活するもだがそれはどの福音書も週の初めの日である。この日は日曜日なので「主の受難」の日は金曜日である。つまり、「最後の晩餐」は木曜日の日没後である。ユダヤの暦では木曜日の日没後は金曜日である。ヨハネは14日の金曜日に「最後の晩餐」、翌開けて15日土曜日が過越祭と書いてある。ヨハネだけがキリストを「世の罪を取り除く神の小羊」(『ヨハネによる福音書』01章29節)と捉え磔刑により夕方に小羊(キリスト)の贖いの血が流れ、過越を迎えることを意図したのだろうと考えられる。
また、15日を金曜日で過越祭とすればマタイ、マルコ、ルカの「最後の晩餐」=「過越の食事」でも矛盾しないように見える。パンとワインによる新しい「契約」(もって「新約」)をすることで過越さない=処刑されるを意図したためと考えられる。ちなみにヨハネにはこの「契約」の記述はない。
こういう理由でキリストが処刑されたのは14日か15日の金曜日、復活が16日か17日の日曜日という説明がなされることもある。問題は「聖餐式」に出すパンを酵母の入っていないパンとするかどうかで、現在でも議論として残っている。余へネが正しいと考える人たちは酵母を使ったパンを、マタイ、マルコ、ルカを信じる人たちは酵母の入っていないパンを用意する。
ただ、マルコ、ルカの「最後の晩餐」=「過越の食事」に関しては、次の2つの節は明らかに矛盾しているように見える。
「(処刑の後)既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった」(『マルコによる福音書』15章42節)
「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。」(『ルカによる福音書』23章54節)
レオナルド・ダビンチ『最後の晩餐』Wikipedia
「最後の晩餐」と「過越祭」管理人
・ 「最後の晩餐」は寝っ転がって食事
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「最後の晩餐」はレオナルド・ダビンチの壁画が有名でありそのイメージが強い。横長のテーブルに椅子に座って食事をしている。しかし、当時の過越しの食事は、コの字型のテーブルに寄りかかって食事をする習慣だったとのこと。聖書にある「食卓に着く」と訳された元の動詞は「アナピプトォー」で「横たわつて食事を摂る」という意味だそうだ。
当時の過越の食事「牧師の書斎」
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E9%81%8E%E8%B6%8A%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B
・ 復活祭
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復活祭は、十字架にかけられたイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭。4つの福音書では復活の日は、キリストの処刑後第三日目のユダヤの週の初めの日(日曜日)である。
復活祭の日は「春分の後の最初の満月の次の日曜日」である。325年のニカイア公会議で決められた。キリスト教徒は世界中に広くいるため春分日が1日ズレる地域もある。そこで、3月21日を復活祭を決める春分日と固定化した。また、満月も1日ズレることがあるため、簡素化した方法で計算される。これらは世界中でユリウス暦やグレゴリオ暦の同じ日に復活祭を祝うようにするためである。
キリスト教徒の多い国では復活祭と前日の土曜日を国民の祝日としている。さらに、キリスト処刑の「聖金曜日」を祝日としている。また、復活祭の翌日の月曜日を国民の祝日としている国も多く、4連休のイースター休暇と呼ばれる。メキシコのように月曜日ではなく木曜日を祝日とし4連休としている国もある。例外が多民族国家アメリカ合衆国で復活祭は国の祝日ではなく、もちろん「聖金曜日」「復活祭月曜日」もない。州法で定めているところもあるが少数。また、民間企業の実施率として「聖金曜日」は20%、「復活祭月曜日」は5%が休日に制定しているとの報告がある(2016/11/16、http://holidays-calendar.net/calendar/usa_calendar.html)。
復活祭はラテン語で「パスハ」でありユダヤの過越(ペサハ)に由来する。福音書により異なるが復活祭の前日(ヨハネによる福音書)あるいは二日前(マタイ、マルコ、ルカによる福音書)が過越祭である。
過越祭はユダヤ暦ニサン15日(春分の後の最初の満月)と決められている。しかし、復活祭はキリスト教の安息日である日曜日としている。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(『マタイによる福音書』28章01節)
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」(『マルコによる福音書』16章01-02節)
「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」(『ルカによる福音書』24章01節)
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(『ヨハネによる福音書』20章01節)
キリスト教徒にとって最も重要な日なので、復活祭関連した行事は長期にわたり宗派によってそれぞれ細かく決まっている。典型的な例をカトリック教会の一般的な場合で説明する。教会暦は日没を一日の教会としているので注意が必要だ。
復活祭の行事は「灰の水曜日」と言われる四旬前(日曜日を除く40日前=46日前)に始まる。灰の水曜日は前年「枝の主日」で使用した枝を燃やし灰にする日。「灰の水曜日」から聖金曜日の前(木曜日の日没前)までを四旬節という。四旬節は本来、復活祭に洗礼を受ける求道者のために設けられた期間である。求道者は食を制限する大斎と肉を食さない(昔は卵や乳製品も含まれた)小斎を実行しなければならなかった。現在は日にちが限定されている。
また、肉食が禁止される「灰の水曜日」の前夜祭がカーニバル(謝肉祭)である。これは、もともとはゲルマン人の祭りと習合したものと言われる。
復活祭一週間前の日曜日から聖週間が始まる。
初日の日曜日は「枝の主日」と言われ、キリストがロバに跨り、エルサレムに入城したとき、群衆がナツメヤシの枝を手に持ち迎えたことに因む。その土地の植物の枝が祝別される。
「聖木曜日」の日没後から「復活の主日」を「過越の聖なる3日間」という。「主の晩餐の夕べのミサ」に始まり。「復活徹夜祭(日没から明け方)」に続き、「復活の主日の晩の祈り」で終わる。イースター・エッグが配られ、教皇から復活祭のメッセージが発表される。「主の晩餐」では肉などが制限された四旬節明けなので御馳走が並ぶ。
復活祭を含む8日間を「主の復活の8日間」と言い祝福する。
復活祭を数えて40日目が「主の昇天」である。復活したキリストが天にあげられたこと、またそれを記念するキリスト教の祝日である。『使徒言行録』1章9-12節に基づく
「主の昇天」の10日後が「聖霊降臨の主日」あるいは「ペンテコステ」である。キリストの昇天から10日後、ユダヤ教の五旬祭の日に使徒とイエスの母や兄弟たち、イエスに従った女たちが集まって祈っていると、激しい風のような音が聞こえ、天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降った。集まって祈っていた信徒たちは聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉で語り始めた。多くの人が信じて洗礼を受け、使徒たちのグループに加わった。これが「聖霊降臨」の出来事である。「五旬祭」は過越祭から50日後に始まるユダヤの祭りで「シャブオット(七週の祭り)」ともいう。出エジプトの49日後にシナイ山で神が律法を与えたことを記念している。
「聖霊降臨」から1週間後に「三位一体の主日」、2週間後に「聖体の祝日」がある。
・ 英語イースターの語源
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復活祭は、ラテン語で「パスハ」から派生した言葉で呼ばれるが、英語とドイツ語は少し異なる。英語「イースター(Easter)」とドイツ語「オースタン(Ostern)」はゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」またはゲルマンの春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来する。
・ イースターエッグ
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イースター・エッグとは、復活祭(イースター)を祝う、特別に飾り付けられた卵。同型の食品や装飾品も含まれる。特に、最近はチョコレートやマジパンを用いたイースター・エッグが大量に販売されている。
5000年以上前のメソポタミアやエジプトでは卵は「死」と「再生」の象徴であり、墓に金銀で飾られた卵が置かれていた。これをユダヤ教、そしてキリスト教が取り入れていったと考えられている。実際、ユダヤ教の過越祭では神殿の再生を願うゆで卵が食せられ、キリストの復活の象徴としてのイースター・エッグはメソポタミアのキリスト教徒から広まったと考えられている。キリスト教では1610年の「Roman Ritual」で正式採用された。
一方、生命誕生の象徴である卵と多産の兎は春の、そして繁栄や豊穣のシンボルであり、ヨーロッパの広範囲において古くからあった。特にゲルマン圏のドイツ語や英語圏ではイースターの由来となった春の女神「エオストレ(Eostre)」との関連で古くから春の祭典に卵と兎が象徴的に用いられた。また、ゾロアスター教では新年は春分の日であり、祝いの食事に卵が食卓に出た。
春のシンボルとしての卵を使う伝統行事が各地にみられる。ゲルマン圏のドイツ語や英語圏ではイースター・ゲームと言われる風習があり、今でも引き継がれている。イースター・バニーというウサギが卵を隠すという伝承で、復活祭の朝に子供たちは隠された卵を探すのである。フランスやイタリアなどラテン語系の国では兎の代わりに鐘が卵を隠すことになっているが、同様の風習がある。また、エッグ・ローリングやエッグ・タッピングも伝統行事として現在も行われている。
卵の飾りつけは古代から見られ、アフリカにおいて6万年前の飾りつけ卵が発見されている。エジプトやメソポタミアの墓に置かれた「死と再生」の卵は金銀で装飾されていた。また、、キリスト教ではマグダラのマリアがローマ皇帝に手渡したという逸話に出て来る卵がキリストの血を象徴する赤く彩色されていたという(ただし、「Roman Ritual」ではイースターの食品として認定されていた)。このため、カトリック教会などでは今でも赤い卵が配られる。
スラブ語圏では古くから迎春祭の象徴として装飾された卵が使われていた。特に、プィーサンカという、ウクライナの蝋結染め(バティック)技術によって装飾された卵が有名であり、11世紀ごろからイースター・エッグとして広まっていった。
装飾品や芸術品にイースター・エッグをモチーフにしたものも数多くある。
インペリアル・イースター・エッグはファベルジェ家がロマノフ朝のロシア皇帝アレクサンドル3世、ニコライ2世のために作った宝石の装飾が施されたイースター・エッグである。1885年から1917年の間に58個作られたとされている。
ウクライナのプィーサンカWikipedia
インペリアル・イースター・エッグ、
皇太子アレクセイ (皇太子を敬って皇后アレクサンドラへ、1912年)Wikipedia
関連
・ 占星術の黄道十二宮
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占星術はバビロニアが発祥とされる。天体の観測が起源であるが、国家や王家の吉凶判断に用いられた。これがギリシャに伝わりヘレニズム文化が栄える中で、ホロスコープを用いる占星術が現れ、西洋占星術の礎となった。占星術では天球上の黄道を中心とした、太陽・月を含む惑星が運行する約8度の帯状領域を黄道帯(Zodiac)といい、黄道帯を12分した領域を宮あるいはサインという。この12の宮あるいはサインを黄道十二宮という。春分日の太陽の位置である黄経0度から30度づつ12等分し宮を割り当てたのがトロピカル方式と言い、それぞれの宮に星座が象徴として割り当てられる。しかし、歳差により黄道は移動するため実際の星座の位置と宮とは一致しなくなている。一方、実際の星座の位置を重視した方式をサイデリアル方式という。この場合、黄道帯の中で星座が移動するに従い黄道上の宮も移動する。
黄道十二宮Wikipedia
黄道十二宮スタデイスタイル
・ 昼夜の長さ
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春分の日・秋分の日は昼と夜の長さが同じと言われる。昼は日出から日入の時間までを言うとする。しかし、北極では北極や南極では常に太陽が水平線上を回るようになり昼が24時間である。赤道に近いところほど昼と夜の長さがほぼ近くなる。東京でも実際には昼が7-10分程度長い。国立天文台の2015-2017年のデータによれば東京では春分日でも秋分日でも大体12時間8-9分である。
2015-2017年の春分日と秋分日における日出・日入国立天文台
東京付近を前提にすると、主に3つの原因と考えられる。(1)日出・日入の定義に起因:日出は太陽が地平線に現れる瞬間、日入は太陽が完全に沈む瞬間であるため、太陽1個分が昼が長くなる。(約2.0分)
(2)大気層での屈折:地球表面に大気があり光の屈折により太陽の光線は曲げられる。少し斜めに光が当たる。国立天文台によればその角度は34分8秒である。(日出・日入それぞれ2.3分)
(3)地球の公転に起因:地球は公転しており日出から12時間後の位置より少し回った位置に来ないと日入にならない。この時間は北極や南極に近づくほど大きくなり、北極や南極では常に太陽が水平線上を回るようになる。(約2.0分)
これ以外に春分時間が与える影響+/-1分以内があり微小な自転・公転に関わるずれもある。これから昼の時間は12時間7-10分ということができる。
日出・日入の定義に起因管理人
大気層での屈折管理人
地球の公転に起因管理人
主要都市の昼の時間(Note:滑らかでないのは緯度の影響)管理人
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 国立天文台ホームページ
[ 3] 日本聖書協会ホームページ
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.10.06] ORIGINAL