中国中秋節
・ 仲秋と中秋
... more/close
旧暦では秋は七、八、九月のこと。真中の月八月を仲秋という。秋の真中、八月十五日のことを中秋という。
・ 古代中国から秋の満月の日に農民の収穫の祭が、秋分の日に宮廷行事が行われた
... more/close
古来から八月の満月の日に収穫を祝い神に感謝する秋祭りは広く行われていた。満月は豊穣のシンボルであった。中秋と仲秋の月の区別も必要なかった。
中秋/仲秋の月の現存する最古の記録は『禮記』にある
「仲秋之月養衰老、行糜粥飲食」
一方、宮廷では春分の日に太陽に豊作を祈願し(「春祈」という)、秋分の日に収穫を感謝する祭祀(「秋報」という)が行われていた。
『禮記』
「天子春朝日,秋夕月」
・ 南北戦国時代ごろには月を愛でる文が残されており、唐では月見が盛大に行われた
... more/close
魏晋南北朝には月を思う歌が残されている。
魏晋楽府の『子夜四時歌』「秋歌」に
「仰頭望明月、寄情千里光」
唐時代(618年~907年)には賞月の行事が盛大に行われた。特に玄宗皇帝は宮廷の月亭で宴を催し中秋の月を優雅に愛でた。玄宗は道士、羅公遠月と月宮を訪れたという伝説「梦游月宮」と舞踊歌「霓裳羽衣曲」を作った。また、八月十五日(中秋)を中秋節といわれていた。
『太宗記』の記述
「八月十五中秋節」
中秋節
唐游月
・ 北宋時代に正式に中秋節が定まり、民間では月見の行事が盛んとなる
... more/close
北宋、太宗が中秋節を宮中の節日として正式に定めた。中秋節は宮廷から民間広まり、富貴な家では観月が行われた。詩も盛んとなった。一方、街では身分を問わず大騒ぎの日となった。
蘇東坡『中秋月』
「暮雲収尽溢清寒
銀漢無声轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看」
[暮れの雲はすっかり無くなり、清々しい冷気に満ちている。銀河は音も無く玉の盆のような月をめぐってきた。(素晴らしい)この世この夜は永遠には続かない。この明月を来年はどこで見てるであろうか]
大騒ぎの記録として宋の『東京夢華録』に
「中秋夜、富貴人家将花苑内的台?(木へんに射、東屋)装飾得花団錦簇、民間則三五結群争占酒楼和茶館、歓度中秋良宵美景。」
賞月図(清時代)台湾故宮博物館
・ 月餅の原型は紀元前からあり清時代に現在の形になった
... more/close
月餅の原型は紀元前の殷・周の時代からあった。殷の太師・聞仲を偲んだ「太師餅」であり月餅の最古の原型といわれる。
漢時代に西域から胡麻や胡桃が入ってきて材料に加わり「胡餅」と呼ばれる。唐時代に宮中で「胡餅」を「月餅」と名付けて中秋節のお供えをしたと言われる。名付け親は高宗、明帝、楊貴妃と定まっていない。
宋時代には「宮餅」という名称で貴族間で贈答に使われ定着した。民間では「小餅」といった。蘇東坡の詩句の中に「小餅如嚼月 中有酥和飴」とあり現在のものとほぼ変わらない。
南宋時代や明代の記録には「月餅」がみられる。清代に砂糖を使った月餅が作られ、現代のように木の実や蓮の実を入れるものや、甘い味をつけた卵の黄身を入れるなど様々な餡が工夫された。
果仙敬月図
月餅
・ 現在中国では中秋節は祝日である
... more/close
2008年に旧暦八月十五日は中秋節の祝日として定められた。
丸い満月は団欒を象徴し、は「団欒節」とも呼ばれている。月餅 (げっぺい) や瓜,果物を庭に並べて月に供え,枝豆や鶏頭花を捧げたりして楽しむ。商工業者の間では,端午節,歳暮と並ぶ三大取引決済期の一つであり,唐代以後広く民間に行われた。
・ 中国近隣国の中秋節
... more/close
ベトナムではTet Trung Thu(テトチュントゥー)といい旧正月(テト)に次いで盛り上がる日である。この日は子供のための祭日であり、多くの行事が開催される。
ベトナムでは月伝説はクオイの伝説である。クオイの妻はうっかり聖なるガジュマルの木に尿をして、木を冒涜してしまう。そしてその木の枝に座った時、木は成長を始め、とうとうクオイの妻を載せたまま月まで伸びてしまったという物語。
子供たちはクオイを妻のところに導く灯籠を灯して行列を作り:、ランタンを飛ばす行事もある。
韓国では秋夕(チュソク)という。秋夕は秋の彼岸に当たり、が墓参りが中心の祭日である。
ベトナムの中秋節
ベトナムの中秋節 EVERRISE VIETNAM BLOG
http://blog.everrise.asia/
::
日本伝来
・ 奈良時代に伝来する
... more/close
日本には奈良時代末期から平安時代初期に伝わり宮廷行事になった。
『日本歳時記』に
「十五日、中秋といふ、秋九十日の最中なる故なり、〈中略〉今宵は秋の最中にて、殊に月を賞する故に、月夕とも、三五夕ともいふ、歌人騷客の晴を期する夕なり、林羅山野槌にいはく、今夜月を玩ぶ事、大かた李唐の世より盛にして、詩人文人其詠おほしといへども、古樂府に孀娥怨の曲あり、漢人の中秋の月なきによりて、此曲を作るとある時は、漢の世よりもある事にや、又、もろこしには、今宵餅を製して、いろいろの状に作り、月餅と號して相をくり、又月餅、西瓜等を食して、看月會をするよし、月令廣義にみへたり、」
・ 宮廷の観月では詩歌を嗜み、船を浮かべ演奏を優雅に楽しんだ
... more/close
唐の影響を受け月見の行事が優雅に行われた。
『古今要覽稿』
「八月十五夜 八月十五夜の月を賞すること、〈中略〉齊衡三年詠史百四十六首を奉り、貞觀元年調三百六十首を奉れるよし、」
『日本紀略』に
「延喜九年閏八月十五日、夜、太上法皇〈宇多〉召文人於亭子院、令賦月影浮秋池之詩」
『中右記』に
「〈寛治八年八月〉十五日 〈中略〉先出御船 有御遊、藤大納言拍子帥大納言、〈琵琶〉左大將、〈筝〉宰相中將、〈笛〉宗忠、〈笙〉有賢、〈和琴〉皇大后宮權大夫并政長朝臣付歌、」
・ 幕府でも月見の宴が行われた
... more/close
『年中恒例記』
「八月十五日 明月御祝參於内儀也、」
『江戸鹿子』
「八月 名月月見之御祝 金かわらけに而さヽげ奉
豊原周延『千代田の大奥』 「月見之宴」 東京都立図書館
・ 江戸時代中期以降、町民に広まる
... more/close
商人を中心とした町民が貴賤を問わず楽しんだ。
山東京伝『五節句童講釋』
「やん事なき御邊の月見の有様は月の光ならねばさし窺くべくも有らず。今宵に限る名月なれば其の樂む處種々あるべけれど、其の一二を申さば棟高く造りたる町方の福人のみ仲間の客を招き、藝者假色を擬ね、〈中略〉料理は名高き處より運ばせ、三ツ列べし、土蔵の間よりさし登る月を盃の始にて、猪口と倒ぶが摺れ交ふ酒宴に謠ふ豐後節、淸き光の名月を後にして、いと騒がしき酒宴は風雅の眼からは大俗と笑ふべけれど、是等は目出度月見なるべし。<br>千差萬別の中に裏借家を窺けば、〈中略〉踏臺の上に米櫃の蓋を載せ一升徳利に八本の芒を活け、出入の旦那より貰ひたる月見の團子を其儘供へてお月様への捧げ物、〈中略〉鮪の煮付に?(ひしこ)の縵膾(ぬた)頭から茶碗で始め、〈中略〉かかる月見もその樂む所は同じかるべし。」
石河流宣『大和耕作絵抄』「名月」柏書房 「江戸東京歳時記をあるく」
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r03-11.html
歌川豊国(初代)画「役者十二つき 八月十二だん 月見の図」 国立国会図書館所蔵
歌川国輝初代「江戸名所 高輪の月見」
・ 日本独特の十三夜
... more/close
八月十五夜と九月十三夜(「後の月見」)の二回月見をする習慣があった。
十三夜は日本独特で平安時代に始まった。
『古今要覽稿』に
「九月十三夜 九月十三夜を賞することは、延喜十九年[919年]内裏にて、月の宴せさせ給ひしぞ始なるべき、〈躬恒集にみえたり、中右記には、寛平法皇の仰より、明月の夜とすとみえたり、〉」
『光臺一覽』に
「十三日、〈九月〉今夜は名殘の月とて眺賦せる事、異朝には例なし、和國にては後朱雀院いまだ潛龍の御時、樞要の公卿御發鬱之御爲にて、彼御所へ參上して御遊を催し、枝豆を供じて慰め奉る、」
十五夜は里芋を供えるので「芋名月」、十三夜は枝豆を供えるので「豆名月」または「栗名月」と呼ばれていた。
『書言字考節用集』に
「後月宴(ノチノツキミ)〈九月十三夜〉」
『和漢三才圖會』に
「九月十三夜 按、俗八月十五夜煮芋食、稱芋名月、今夜煮莢豆食、稱豆名月」
・ 「十五夜」や「十三夜」が年に二回あることがある
... more/close
旧暦では二十四節気(太陽に同期)との調整で閏月がある。閏月で閏八月または閏九月が挿入される場合に1年で十五夜または十三夜が二度現れることがあり、二度目についてはそれぞれ「後の十五夜」、「後の十三夜」と呼ばれていた。宣明暦:貞観4年1月1日(862年2月3日)~貞享元年12月30日(1685年2月3日)の824年の間に閏八月は19年、閏九月は24年あった(閏年は303年)。
宣明歴824年間に起きた閏月の月毎回数 Yahoo知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128987
宣明歴824年間の閏年 Yahoo知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128987
月見
・ 中秋の月は空が澄んで美しいとされた
... more/close
古代から満月は豊穣の象徴として祭られていたが季節的に空気が澄み、明るく見える月を美の対象ととして鑑賞するようになる。
『倭訓栞』に
「つきみ 中秋十五夜は秋の最中なれば、至て清明なるをもて、倭漢ともに賞し來れり」
『徒然草』に
「八月十五日、九月十三日は、婁宿也、此宿清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす」
『守貞漫稿』
「八月十五夜、賞月俗二月見ト云」
・ 平安時代に月見が優雅に盛大に行われた
... more/close
966年の村上天皇の頃始まった中秋節の宴が貴族の間で優雅に催された。「月見の宴」では月を愛でながら詩歌管絃して、月を愛でた和歌が遺されます。また、池や杯に月を映して宴を楽しんだ。
源氏物語などにも描かれた。
『武江遊観志略』
「看月の宴、諸所賑へり」
『江戸名所花暦』浅草川
「清明の夜は、月の輝(ひかり)滔々たる水に浸りて、あたかも金竜のうかふに似たり。人々船を泛へ、流にさかのほり、詩を賦し歌を詠み、あるひは妓を携、弦歌を催し、おもひおもひに遊興をつくせり。」
『源氏物語絵巻』「鈴虫(源氏の君は冷泉院から月見の宴に招かれる)」
・ 江戸の観月の名所遊覧(江戸時代)
... more/close
江戸時代盛んになったのは観月遊覧である。空の広い野原や河辺などに出向き、名月を愛でた。観月の名所ができ屋台などが出た。『江戸名所花暦』は、月の名所として三派(みつまた)、浅草川、武蔵野、玉川、品川をあげている。
『武江遊観志略』
「看月の宴、諸所賑へり」
『江戸名所花暦』浅草川
「清明の夜は、月の輝(ひかり)滔々たる水に浸りて、あたかも金竜のうかふに似たり。人々船を泛へ、流にさかのほり、詩を賦し歌を詠み、あるひは妓を携、弦歌を催し、おもひおもひに遊興をつくせり。」
『江戸名所図会』「小名木川五本松」 国会図書館蔵
「寺島村百花園(現・向島百花園)」
鳥居清長「真崎の月見図」
鳥居清長「大川端楼上の月見」
広重「隅田の景 月の宴」
広重「京橋竹かし」
・ 江戸時代地方の月の名所が浮世絵に描かれた
... more/close
各地の月の名所ができた。特に東海道の石山寺は月の名所として数多くの浮世絵が描かれた。石山寺は「枕草子」や「更級日記」・「蜻蛉日記」などにも登場し、平安時代より多くの人に愛されてきた。紫式部が源氏物語の着想を得たことから、源氏物語ゆかりの寺として知られる。
金沢八景の瀬戸神社も多く描かれた。
歌川広重「石山秋月(近江八景之内)」 ボストン美術館
歌川広重「瀬戸秋月(金沢八景) 」 ボストン美術館
歌川広重「信濃 更科田毎月 鏡台山(六十余州名所図絵) 」 ボストン美術館
・ 月の満ち欠けと月見
... more/close
月の名称 月の写真はJAXA
一夜 | 「新月」 「朔(さく)」 | 陰暦では毎月の第一日目のことを「朔」と呼んだ。月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言う。 朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。 |
二夜 | 「既朔(きさく)」 「繊月(せんげつ)」 「二日月(ふつかづき)」 | 既朔は朔を過ぎたという意。繊月は繊維の様に細い月という意。 |
三夜 | 「三日月」 「眉月」 | 眉月はその形状から。 |
七夜 | 「上弦の月」 「弓張月」 | 輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえたもの。上弦の上は先の意味。 |
十夜 | 「十日夜の月」 「三の月」 | 旧暦十月十日月がその年の収獲の終わりを告げるの月とされた。 八月十五日、九月十三日に続く第三の月見の日。 |
十三夜 | 「十三夜(じゅうさんや)」 | 満月に次いで美しいとされている月。完全ではない(円ではない)ことと成長して満月になることが好まれた。 九月十三日は第二の月見の日。「後の月」。 |
十四夜 | 「待宵月」 「小望月(こもちづき)」 「幾望(きぼう)」 | 待宵は翌日の十五夜を待つ意。小望や幾望は十五夜の前日の意。幾は「近い」の意味を持つ。 |
十五夜 | 「望月」 | 満月。天文学的には満月ではないこともある。 |
十六夜 | 「十六夜(いざよい)」 「不知夜月(いざよいづき)」 「既望(きぼう)」 | 「いざよい」は満月の翌晩は、月がためらって月の出がやや遅くなる、既望は望を過ぎたという意。 |
十七夜 | 「立待月」 | 夕方,立って待つ間に出る月の意 |
十八夜 | 「居待月」 | やや遅く出るので座って待つ月の意 |
十九夜 | 「寝待/臥待の月」 | 月の出るのが遅いので寝て(臥して)待つ意 |
二十夜 | 「更待月(ふけまづき)」 | 夜が更けるころに昇ってくるの意。 |
二十二夜 | 「下弦の月」 「弓張月」 | 輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえたもの。下弦の下は後の意味。 |
二十三夜 | 「二十三夜」 | 旧暦二十三日の月待の一つで、全国に広く行われている。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴を前によもやま話をして待つ。<br>一、五、九、十一月に行っているところが多い(十一月二十三日は大師(だいし)講の日)。二十三夜は男だけ、二十二夜は女だけという地方もある。 |
二十六夜 | 「二十六夜」 | 江戸時代、陰暦正月・七月の二十六日の夜、月の出るのを待って拝むこと。月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝えられている。 |
三十夜 | 「三十日月(みそかづき)」 「晦日月(つごもりづき)」 | 三十日なので「みそか」。「晦日(つごもり)」ともいう。「つごもり」は「つきこもり」が転じたもの。 |
| 「有明の月」「暁月」 | 十六日以後、夜が明けかけても、空に残っている月。 |
・ 「望月」
... more/close
ぼうげつ、もちづき。陰暦十五夜の月。天文学的には十五夜は満月とは限らないが、古代では十五夜=満月=望月であった。
藤原実資『小右記』に
藤原道長が威子立后の日に歌った「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
満月を「みちづき」と読み、木立が「きだち」から「こだち」になった母音交替と同じ原理で「みちづき」から「もちづき」になった。
太陰暦では月の満ち欠けを暦としていた。その周期を「朔望」という。「朔」は「元に戻る」つくりと「月へん」で月が元に戻るという意味から新月のこと。「望」の成り立ちは甲骨文字では「目を開いた様子」の「臣」の下に「背伸びをした様子」の「任」を重ねたものだった。「遠くを見る」=「のぞむ」という意味だった。金文字で「臣」の右横に「月」が加わり「、目を開いたような月」=「満月」の意味が加わった。更に小篆文字で「臣」が「望」と同じ発音の「亡」に置き換えられた。
「望」の成り立ち 記事編集
http://class.jsxxcn.com/jssyxx200402/ShowArticle.asp?ArticleID=10504
・ 「無月」「雨月」
... more/close
「無月(むげつ)」は空が曇って月が見えないことだが、特に中秋の名月についていう。
「雨月(うげつ、あめのつき)」は中秋の名月が雨で見られないこと。雨名月。雨の月。
「縁さきに萩波うてる無月かな」万太郎
「船頭遂に蓑笠つけて雨月かな」虚子
ちなみに、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本『雨月物語』の名前の由来は序文に
「雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に与ふ。題して雨月物語と云ふ」
とある。
・ 「片見月」
... more/close
遊郭でも騒ぐことが盛んとなった。吉原では十五夜の月を見たら、九月十三日の十三夜の月も必ず見るもので、そうしないことを片見月と言った。もちろん客獲得の戦略であった。ここから片見月は縁起が悪いというのが広まった。
『東都歳事記』に
「今夜吉原の賑ひ大方ならず、廓中のならひとして、遊女より馴染の客へ杯を送る事、寶永の頃角山口の太夫香久山より始りけるとぞ、又待宵既望ともに賑へり、 元祿の頃迄は、良夜に三派の月見とて、船にて大川へ出たのしめる事あり、此夜に限り官のゆるしを得て、花火をともしけるとなり、」
豊原国周画「見立月見之内」 「たばこと塩の博物館」所蔵
お供え、団子
・ 宮中行事では里芋、茄子(月を覗いた)、甘酒が供えられた
... more/close
農民の収穫祭りでは里芋が振る舞われた。宮中でも里芋が茄子と甘酒とともに供えられた。また、茄子は穴をあけて月を覗くのに用いられた。
『禁中近代年中行事』に
「十五日、名月おこん、 九月十三日同事 初獻、さといも三計、かわらけに高盛、直に三方におく、常の御はしそへ、
二獻、小きなすび三計、かわらけに高盛にして、三方一ツに二ツを置、御はし、はぎのはし、なすびにはぎの御はしにて丸くあなをあけ、月の御覽のよしなり、
三獻、あまざけ、伊豫の局よりあがる、荷桶に入上ル、常のあまざけをひきこしてなり、御まへ〈江〉はてうしに入出ル、」
『後水尾院當時年中行事』に
「〈八月〉 十五日、名月御さかづき、つねの御所にて參る、まづいも、次に茄子を供ず、なすびをとらせましまして、萩のはしにて穴をあけ、穴のうちを三反はしをとほされて、御手にもたる、御さかづき參りてのち、御前のをてつす、せいりやうでんのひさしに、かまへたる御座にて月を御覽あり、彼の茄子の穴より御覽じて御願あり、」
・ 室町時代には様々な秋の実りをお供えした
... more/close
室町時代になると収穫の感謝の気持ちを汲んで様々な農作物が供えられた。
『年中恒例記』に
「八月十五日 明月御祝參於内儀也、茄子きこしめさるヽ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之、 御いも、御かゆ、茄、大草調進之」
・ 江戸時代に団子をお供えすることが広まった
... more/close
団子は古くからあり、神饌のふやかした米を搗いて丸めたりした粢(しとぎ)原型とされる。江戸時代には神社の祭祀が各家庭でも行われるようになり、また、白米が民間にも広まりその粉を蒸した団子を供えるようになった。
『俳諧歳時記』に
「名月〈名高き月、けふの月、今宵の月、十五夜、三五夜、望月、月見、中秋、十五夜の月を玩ぶこと、中ごろより和漢みな然り、民間今日?[食偏に甘]を製し、同器に芋と枝豆とを盛り、并に神酒尾花を月に供し、或は互に相贈る、」
『東都歳事記』に
「十五日 看月諸所賑へり〈家々團子、造酒、すヽきの花等月に供す、清光のくまなき、うかれ船を浮べて、月見をなす輩多し、〉」
玉川舟調「秋 無款」 リッカー美術館蔵
鈴木春信「団子を持つ笠森おせん」
・ 京都・大阪では里芋の形に作り、甘いきな粉などをまぶし12あるいは13個供えた
... more/close
上方では里芋を模した団子が供えれた。
『守貞漫稿』に
「京坂ニテモ机上三方ニ團子ヲ盛リ供スコト、江戸ニ似タリト云ドモ、其團子ノ形、圖ノ如ク小芋ノ形チニ尖ラス也、然モ豆粉ニ砂糖ヲ加ヘ、是ヲ衣トシ、又醤油煮ノ小芋トトモニ、三方ニ盛ルコト各十二個、閏月アル年ニハ十三個ヲ盛ルヲ普通トス、」
『浪花の風』に
「月見には團子を製すること江戸と同じ、しかし汁烹にすることは稀なり、きなこ、又はあんを附て食ふ、芋を賞玩す、」
・ 九月十三夜の後の月見では団子は作らなかった
... more/close
団子は収穫の感謝のお供えなので十三夜では供えない。
『浪花の風』に
「十三夜には團子を製することなし、うで豆一式を多く調へ置て、家内下女、下男迄に、多く是を食はしむ、故に十三夜の月を、市中にて豆名月といふ、」
・ 「すすき」は月の神様の依代
... more/close
収穫感謝の祭祀において月の神「月讀命(つくよみのみこと)」が降臨する物「依代」としてすすきが供えられた。『書紀』第五段第十一の一書で「月讀命」は「保食神(うけもち)」を剣で刺し殺し、その死体から農産物が生まれ、「月讀命」は穀物(稲)の神となる。稲穂と似たすすきが米からつくる団子の原型である粢(しとぎ)と共に秋の祭祀に供えられた。江戸時代後期に月見が町民に広まると団子と一緒にすすきが供えられた。
喜多川歌麿「月見の母と娘図」 香雪美術館蔵
歌川国貞「月(幼女四雅之内)」 ボストン美術館蔵
・ 江戸と上方ではお供えが異なっていた
... more/close
貴族の月見が民間に広まった上方と神事の収穫祭が広まった江戸では月見の習慣が異なっていた。江戸では団子とすすきと萩などの花を供えた。一方、上方では硯などの歌の道具を載せた。そのそばに里芋の形の団子を載せることもあったがすすきなどを供えることはなかった。
『守貞漫稿』
「三都トモニ今夜月ニ團子ヲ供ス、然レドモ京坂ト江戸ト大同小異アリ、江戸ニテハ圖ノ如ク、机上中央ニ三方ニ團子數々ヲ盛リ、又花瓶ニ必ラズ芒ヲ挟テ供之、京坂ニテハ芒及ビ諸花トモニ供セズ、手習師家ニ此机ヲ携ヘ行キ、此引出シ、筆、硯、紙、手本等ヲ納メ、京坂ノ如ク別ニ文庫ヲ携ヘズ、京坂ニテモ机上三方ニ團子ヲ盛リ供ス」
『守貞漫稿』
鈴木春信「近江八景 石山秋月」 神奈川県立歴史博物館
兎の餅つき
・ 月面模様は世界で様々
... more/close
日本では兎の餅つきだが世界中に様々な表現がある
JAXAの図をもとに編集 (*)所謂影ではなく光っている部分 https://edu.jaxa.jp/campaign/moon2014/
・ 月に住む兎の最古の文献は屈原の『楚辞』
... more/close
屈原(紀元前4~3世紀)の『楚辞』が月兎について記述する最古の文献とされる。
『楚辞』第三巻「天問」に
夜光何徳 死則又育
厥利維何 而顧菟在腹
[夜光(月)には何の徳があるのだろうか、欠けたと思ったらまた満ちてくる。何の利があるのだろうか、腹にウサギを住まわせている。]
出典:漢詩と中国文化 天問:楚辞 http://chinese.hix05.com/Soji/soji108.html
・ 中国では古くから伝説が多くあり、それによれば月には「蛙(蟾蜍)」「兎(玉兎、月兎)」「桂男」がいる
... more/close
中国の月にかかわる伝説として「蛙」の「嫦娥奔月」、「兎」の「玉兔搗薬」と「桂」の「呉剛折桂」がある。
『五雑俎』
「月中既有兔,又有蟾蜍,有桂,有呉剛、嫦娥」
「嫦娥奔月」
嫦娥(じょうが)は古代では?(女偏に亘)娥(こうが)という。中国神話の弓の名手、?(羽ににじゅうあし、げい、ここではゲイと記す)の妻。帝はゲイを疎ましく思うようになり、ゲイと嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなった。ゲイは崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を二人分もらって帰るが、嫦娥が薬を飲んでしまう。嫦娥はゲイを置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにした。しかし、ゲイを裏切ったむくいで体は蟾蜍(ヒキガエル)にななった。ちなみに仙女と蟾蜍は同じ発音であった。
前漢の『淮南子(えなんじ)』覧冥訓が「嫦娥奔月」の最古の記録とされる。
「譬若?(羽ににじゅうあし)請不死之藥於西王母、?(女偏に亘)娥竊以奔月、悵然有喪、無以續之。何則」
[たとえば、ゲイが不死の薬を西王母に頼んだところ、妻の?(羽ににじゅうあし)娥がそれを盗んで月へと奔り、失意で呆然としてしまうようなものである。]
また、『淮南子』に
「日中有?(足偏に俊のつくり)烏、而月中有蟾蜍」
[太陽の中には?(足偏に俊のつくり)烏(しゅんう)という鳥がいて、月の中には蟾蜍(せんじょ、ヒキガエル)がいる]
『後漢書』天文志に
嫦娥竊?(羽ににじゅうあし不死藥,奔月,及之,爲蟾蜍。
[嫦娥ゲイから不死薬を盗み月へ逃げる。そしてヒキガエルになる。]
「玉兔搗薬」
月の兎に関しては諸説ある。その一つに嫦娥伝説の一つである「玉兔搗薬」がある。これは帝の怒りに触れた嫦娥は月に移った後、不良不死の薬を独り占めした罰として満月の時は真白な兎になって天神のために薬を搗くという伝説。
また、中国の古い伝説では「月に桂の樹があり、その高さは5百丈(1600m位)で、月にいる男が(西河人の呉剛で仙術を誤って学んで桂の樹を伐採する罰を受けている)が斧で木を切ろうとするが傷跡を直してしまうので切り倒すことはできない。中国で言う「桂」は木犀(モクセイ)のことである。当時描かれた「桂」の葉の形からもわかる。
唐の『酉陽雑俎(ゆうようざつそ)』天咫に
「月中有桂、有蟾蜍、異書言、月桂高五百丈、下有一人、常斫之樹創随合、人姓呉、名剛、西河人、学仙有過、謫令伐樹」
浙江省山県出土 月宮鏡の拓本『中国銅鏡図典』
月宮図鏡(鈕に蟾蜍、左下は池)根津美術館
唐 月宮菱花鏡上海博物館藏
馬王堆漢墓から発掘された帛画、中央に人身蛇尾の神、左にしゅん烏、右に三日月と蟾蜍
後漢、123年建立の啓母闕に刻まれた「月宮図」河南省登封市 中原文化の粋 古建築群(中)http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2011-08/18/content_384649.htm
蒋溥 月中桂兔図故宮博物館
・ 飛鳥時代の繍帳に月兎搗薬が描かれている
... more/close
聖徳太子の死去を悼んで橘大郎女妃が作らせたという天寿国曼荼羅繍帳は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。繍帳の中心には「四重の宮殿」があり、上方には日と月、左右には鐘と磬(けい)がある。このうちの「月」は現存繍帳の上段左の区画にあり兎が薬草を搗いている。また、このころ中国から月宮図の鏡が伝来している。
天寿国曼荼羅繍帳 Wikipedia
唐鏡 白銅月宮鑑貫前神社(ぬきさきじんじゃ)http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/ad110008.htm
・ 『竹取物語』に嫦娥伝説の影響が見られる
... more/close
『竹取物語』でかぐや姫が月に帰る時の場面で、帝に不老不死の薬を残して月からの天人に迎えられる。
『竹取物語』
:「天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。またあるは,不死の薬入れり。」:「車に乗りて,百人ばかり天人具して,昇りぬ。」
・ 火に飛び込む兎の物語はインドの釈迦説法に原型
... more/close
紀元前3世紀ごろから編纂されたインドのパーリ語で書かれた古代インドの仏教説話集であるジャータカの547説話の一つ第316話に由来がある。
ウサギは、森に猿とジャッカルとカワウソとともに住んでいた。兎は月を見て「明日が斎戒日」といいそれぞれ施しの準備をすることにした。しかし、兎だけは用意できず「私の肉を差し上げよう」と決めた。サッカ(帝釈天)はそれを知り兎を試すことにした。4匹のもとにバラモンの姿で現れ施しを求める。兎の番になったが、兎はサッカの作った炭火に身を投げる。が、燃えなかった。サッカは兎を褒め、山の汁で月面にその姿を描いた。4匹は規律を守り仲良く暮らした。この兎がわたし(釈尊)であったと結ばれる説法。
「ウサギには布施をするものがない」 ボロブドゥール仏教遺跡巡礼 http://eisai.kosaiji.org/Borobudur/07_Borobudur/index.htm
「ウサギは火に飛び込み自らの肉を供養しようとする」 ボロブドゥール仏教遺跡巡礼 http://eisai.kosaiji.org/Borobudur/07_Borobudur/index.htm
なお、ジャータカの月兎の翻訳は下記でで読むことができる。
http://www.gotama.org/pali/jataka/316.html
アクセスできない場合のために画面コピーを合成したものを掲載する。
ジャータカの月兎の翻訳 http://www.gotama.org/pali/jataka/316.html
・ 火に飛び込む兎の物語は仏教とともに中国そして日本へと伝来、広まった
... more/close
唐僧玄奘が記した『西遊記』のもとにもなった当時の見聞録。玄奘は629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還した訳経僧。中央アジアからインドにわたる、玄奘が歴訪した110か国および伝聞した28か国(更に16か国を付記する)について記述がある。その中のインド・バーラーナシー国の見聞録に月兎の記載がある。
『大唐西域記』巻第七、婆羅?[病ダレに尼]斯国、烈士池の条
『大唐西域記』巻第七、婆羅?[病ダレに尼]斯(バーラーナシー)国、烈士池の条 http://www.gotama.org/pali/jataka/316.html
『今昔物語』は12世紀前半に成立した日本最大の古代説話集である。各説話が「今(は)昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれる。この中に『大唐西域記』を出典とする月兎の物語が記載されている。
『今昔物語』の巻五第13話「三獣行菩薩通兎焼身語」に
兎と狐と猿の三匹が信心から菩薩道を修行していた。帝釈天が彼らの本心を試すべく、老人に化して助けを乞うた。猿は木の実や野菜や穀物を、狐は飯や魚を取って来た。しかし兎は何も手に入れることがず、「私を食べて下さい」と火に身を投げた。その時、帝釈天は本当の姿に戻り、兎の火に入る形を月の中に移した。人々は月の模様を見て殉じた兎を思い出す
「玄奘西行図」Wikipedia
『今昔物語集』原文
平文
・ 「兎の餅つき」は日本独特で江戸時代に広まった
... more/close
江戸時代に月見団子が広まるにつれ、「玉兔搗薬」から「兎の餅つき」に転じた。また、餅つきは望月につながるとされた。
歌舞伎及び日本舞踊の『玉兎(たまうさぎ)』
実に楽天が唐歌に つらねし秋の名にしおう三五夜中新月の 中に餅つく玉兎 餅じゃござらぬ望月の月の影勝 飛び団子
やれもさ うややれ やれさてな 臼と杵とは 女夫でござるやれもさやれもさ 夜がな夜一夜 おおやれ ととんが上から月夜にそこだぞ
やれこりゃ よいこの団子ができたぞ おおやれやれさて あれはさて これはさて どっこいさてな
・ 薬を搗くのは「竪杵」、餅は「竪杵」?「横杵」?
... more/close
江戸末期まで月の兎は薬を搗いていた。その使っている杵は「竪杵(たてぎね)」といわれるもので薬だけでなく穀物を脱穀や製粉するのに用いられた。
団子は米を搗いて粉や細かい粒にした(製粉)のでこの工程は「竪杵」を使用する。その後練って蒸していた。
しかし、餅は蒸したもち米を搗くため「竪杵」では弱すぎる。強い力で搗くためには多数の「竪杵」か「横杵」を用いなければならない。多数の「竪杵」による餅つきは千本杵といわれる伝統行事に見ることができる。容易に強い搗く力を得られるのが「横杵」で餅つきにの主流となった。
18世紀の清朝皇帝の服にある図柄Wiki
「竪杵」手杵ともいうWiki
千本杵那須長観光協会
http://www.nasukogen.org/blog/2012/04/post_136.html
三代豊国 十二月之内 師走餅つき
餅つきの図 「前北斎為一筆」起末具連日記
http://rupe.exblog.jp/23253104/
その他
・ 八月十五日は「仏滅」
... more/close
旧暦八月十五日は日本の六曜で必ず仏滅になることから、俗に「仏滅名月」とも呼ばれる。
・ 「八月十五日」と書いて「なかあき」と読む名字
... more/close
八月十五日=なかあき=中秋のこと。昔から八月十五日の月を「中秋の名月」(なかあきのめいげつ)と呼んだ。
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 歳時部八月十五夜〈九月十三夜併入〉
[ 4] 「月を楽しもう」http://www.lunarembassy.jp/meigetu/index.html
[ 5] 歌舞伎座 江戸食文化紀行http://www.kabuki-za.co.jp/syoku/bkindex.html
[ 6] 柏書房 「江戸東京歳時記をあるく」
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.03.15] ORIGINAL