暦
・ 祈年祭(旧暦九月十七日、新暦2月17日)
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旧暦二月四日、その年の穀物の豊穣を祈る宮中の祭。「としごいのまつり」ともいう。
・ 神嘗祭(旧暦九月十七日、新暦9月17日、10月17日)
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旧暦九月十七日に行われた宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納し五穀豊穣を感謝する儀式。また、例幣使という勅使を伊勢神宮に差遣して幣帛(へいはく、神酒と神饌)を奉じた。「養老五年(721年)九月十一日に元正天皇が伊勢神宮に勅使(例幣使)を遣わして九月十七日に幣帛(へいはく)を奉ったのが起源である。新嘗祭や大嘗祭同様応仁の乱の混乱で中断し江戸時代に再開された。
1873年(明治6年)の太陽暦採用で新暦の9月17日に実施となったが、1879年(明治12年)以降は稲穂の生育に合わせて10月17日に実施されている。また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで祝祭日であった。
・ 新嘗祭・大嘗祭(旧暦十一月二の卯の日)
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旧暦十一月二の卯の日にに行われた宮中祭祀のなかでも最重要な行事。新穀を皇祖・天神地祇に供え、それを伴に食し、皇族の繁栄と国家の安泰、五穀豊穣を願う日。大嘗祭は天皇即位後最初の新嘗祭のこと。天皇が皇族継承者として初めて神々を祀る日なのでより重要な日であり、大規模に執り行われる。
旧暦では十一月の二十四節気の中気は冬至である。冬至は太陽の力が一番弱くなり、再び勢いを増し始める日として、世界中で祭祀が行われていた。新嘗祭も穀物が枯れて春に再生する、大事な五穀の復活を祈ったと考えられる。日本固有の宮中祭祀は陰陽五行と干支の日にちで決められており、暦に取り込まれるとき、冬至あるいはそれに近い十一月の二の卯の日が選ばれたと考えられている。
・ 新嘗祭(11月23日戦前の祝日)
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旧暦では新嘗祭は十一月二の(2回目の)卯の日に行われていた。1873年(明治6年)にグレゴリオ暦が導入されたが、その年旧暦十一月二の卯の日は翌年1月であった。そこで、新暦11月の2回目の卯の日(1873年11月23日)に行うこととした。この年公布の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)」によって国民の祝日となった。
翌1874年からは干支に関係なく11月23日に固定して行われるようになった。戦後も宮中祭祀として11月23日に新嘗祭が行われている。民間の収穫感謝の祭りとして神社で行われる新嘗祭もこれに従った。
・ 勤労感謝の日(11月23日祝日)
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勤労感謝の日は、「国民の祝日に関する法律」(1948年(昭和23年)に公布・施行)で定められた国民の祝日。「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている。
戦前の新嘗祭の祝日が戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」である。米国の Labor Day と Thanksgiving Day を併せた Labor Thanksgiving Day という祝日を考案し、これを和訳したのが「勤労感謝の日」である。
祈年祭
・ 「年」は稲(実り)
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甲骨文字形では上部「禾」下部「人」。禾穀(いね)が成熟して、人が負う。小篆字形では「禾(いね)」+「千」(音)。稲あるいは稲の実りを表す。祈年祭は稲の豊穣を祈願する祭り。
「年」字源 漢典
http://www.zdic.net/z/19/js/5E74.htm
・ 祈年祭
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旧暦二月四日、その年の穀物の豊穣を祈る宮中の祭。「としごいのまつり」ともいう。
春に田の神を山から迎え,秋に再び山へ送るという農耕儀礼が起源と言われる。
中国宮廷の皇帝が新年に豊穣を祈る「祈年」「祈穀」を取り入れ、天武天皇の時代には宮廷儀礼として行われていた。朝廷からは『延喜式』神名帳記載の全ての神社(3132座)に幣帛が奉られた。特に伊勢神宮には天皇が勅使を差遣されて奉幣が行われた。
平安時代には形骸化し、神祇官の内部でのみ行う祭祀となり、鎌倉時代には伊勢神宮関係のみとなった。
他の祭祀同様応仁の乱で途絶え、明治時代の神祇官復興により再開された。祈年祭は重要な国家祭祀と位置づけられ全国の社寺で祭りが行われることになった。
戦後は宮中では天皇家の私的な祭祀となり、伊勢神宮以外の神社では一般の祭りとして行われるようになった。伊勢神宮では2月17日に大御饌と勅使が天皇陛下の幣帛を奉る奉幣の儀が行われる。
幣帛の勅使伊勢神宮HP screen shot
神嘗祭
・ 神嘗祭
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神嘗祭(かんなめさい)は宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納し五穀豊穣を感謝する儀式が行われる。また、例幣使という勅使を伊勢神宮に差遣して幣帛(へいはく、神酒と神饌)を奉じた。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したと言われる。「饗え」は食べ物でもてなす意味である。
旧暦では九月十七日に行われた。養老五年(721年)九月十一日に元正天皇が伊勢神宮に勅使(例幣使)を遣わして九月十七日に幣帛(へいはく)を奉ったのが起源である。新嘗祭や大嘗祭同様応仁の乱の混乱で中断し江戸時代に再開された。
1873年(明治6年)の太陽暦採用で新暦の9月17日に実施となったが、1879年(明治12年)以降は稲穂の生育に合わせて10月17日に実施されている。
伊勢神宮では神嘗祭は一番重要な祭祀である。新嘗祭同様、前日夜の亥刻と寅刻の2回「由貴大御饌(ゆきのおほみけ)」という新穀を天照大御神に捧げる儀式がある。神嘗祭当日は、幣帛使(例幣使)を迎え天皇からの幣帛を奉ずる。
また、祝詞が奏上される。
「皇御孫命(すめみまのみこと)の御命(おほみこと)を以て、伊勢の度會(わたらひ)の五十鈴の河上に、 稱辭竟(たたへごとを)へ奉る天照坐皇大神(あまてらしますすめおほみかみ)の大前に申し給はく、常も進る九月の神嘗の大幣帛(おほみてぐら)を、 某官(つかさ)某位(くらゐ)某王(おほきみ)・中臣の某官某位某姓名(がばねな)を使と爲て、 忌部の弱肩に太襁(ふとだすき)取懸(とりかけ)、持齋(もちゆ)まはり捧げ持た令めて、 進り給ふ御命を、申し給はくと申す」
由貴大御饌伊勢神宮HP screen shot
http://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/kanname.html
勅使(例幣使)伊勢神宮HP screen shot
奉弊(幣帛の奉納)伊勢神宮HP screen shot
・ 伊勢神宮式年遷宮
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伊勢神宮では、神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。「神宮の正月」ともいわれる。伊勢神宮の式年遷宮は、大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後の最初の神嘗祭を「大神嘗祭」という。
伊勢神宮の内宮と外宮にはそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年に一度、交互に、ご社殿やご神宝をはじめ全てを新しく造り、神座を遷す(遷宮)。
天武天皇14年(685年)に定められ、持統天皇4年(690年)に内宮、同6年(692年)に外宮の第1回の遷宮が行われた。
平安時代は「太神宮役夫工米の制」が制定され、税により遷宮の経費が賄われる国家事業となった。
室町時代に入り、「役夫工米の制」が崩れ、第40回内宮遷宮(1462年)をもって中断されたが、約100年に後信長・秀吉の寄進により第40回外宮遷宮(1563年)から再開された。江戸時代は造営奉行、明治時代から戦前は造神宮使庁による国家事業として齋行された。
第二次大戦のため、第59回遷宮(1949年)は延期され1953年に行われた。最近では2013年に第62回目の遷宮が実施された。戦後は政教分離政策から伊勢神宮の自己資金と寄進により遷宮を行っている。
20年の式年は当初より定められていた。
「常に二十箇年を限りて一度、新宮に遷し奉る」(『皇太神宮儀式帳』)
「凡おおよそ太神宮は廿年はたとせに一度ひとたび、正殿宝殿及び外幣殿を造り替えよ」(『延喜太神宮式』)
20年という式年は法隆寺等他の木造建築に比べて非常に短い。それは、萱葺屋根の掘立柱建物で正殿等が造られているためである。掘立柱建物では塗装していない白木を地面に突き刺しているため耐用年数が短い。その他20年に定めた理由に関しては諸説ある。
遷宮は長期にわたる行事で、近年の遷宮では最初の行事である山口祭(ヒノキを伐り出す山の神を祭祀する行事)が遷宮の8年前5月に行われた。木の伐り出しの様々な行事が続き、遷宮7年前の4月には木材に墨を入れ斧を内入れる「木造始祭」、4月末から5月にかけて材木を神宮に納める「御木曳初式」「御木曳行事」が行われた。遷宮5年前の4月地鎮祭に当たる鎮地祭が、1年前の3月に「立柱祭」に続いて「上棟祭」、7月に屋根の葺き替えの完成を祝う「甍祭」が行われる。遷宮の年の8月に正殿の周りに白石を敷き詰める「お白石持行事」、9月末には「心御柱奉建」があり、「後鎮祭」が10月1日に行われた。御神体を旧殿から新殿へ遷す儀式、「遷御」が内宮10月2日夜、外宮10月5日夜に行われた。開けた10月3日と6日に「奉幣」「御神楽」が奉納された。
また、遷宮には莫大な資金を必要とし2013年の遷宮総費用は550億円であった。樹齢200年以上のヒノキが1万本必要とされ、森林の確保や植林が計画的に行われている。
伊勢御遷宮之図伊勢神宮HP screen shot
http://www.isejingu.or.jp/sengu/senguhistory.html
御木曳初式伊勢神宮HP screen shot
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心御柱奉建伊勢神宮HP screen shot
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遷御伊勢神宮HP screen shot
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・ 1000年以上天皇が伊勢行幸を行っていない
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神嘗祭において天皇は行幸せず伊勢神宮に使いを出す。持統天皇が反対を押し切って行幸されて(692年)以来、明治天皇の参拝まで歴代天皇が伊勢神宮に参ったことはなかった。熊野神社への行幸は行われているのでこれは不思議なことである。三種の神器の「八咫鏡」を祀ってあるということが理由と考えられる。
「辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。」(『日本書紀』持統天皇六年三月)
伊勢神宮には早くから齋王がおかれ、天武天皇の時、制度化され、皇族が派遣された。
『日本書紀』によれば、崇神天皇(およそ210年~といわれる)が疫病が流行った時に皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせた。
そして次の垂仁天皇の時代(およそ250年~といわれる)、(豊鍬入姫の姪にあたる)皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに齋宮を設け(「磯宮」という)、天照大神が鎮座された。天皇は倭姫命に「御杖」として天照大神を奉らせた。
故、以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。」(『日本書紀』崇神天皇六年条)
「三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姫命、託于倭姫命。爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姫命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。(『日本書紀』垂仁天皇廿五年三月条)
天皇、以倭姫命爲御杖、貢奉於天照大神。(『日本書紀』垂仁天皇廿五年三月条一云)
天皇の代替わり毎に齋宮が設けられ、天皇の御代として齋王が奉仕した。
この齋宮は天武天皇の時制度化された。
これ以降、伊勢神宮へは勅使が派遣され幣帛(へいはく)を捧げることになった。律令により伊勢神宮へは天皇以外が幣物を捧げることが禁じられていた(私幣禁断)。ちなみに平清盛も3度勅使として伊勢神宮へきている。また、室町時代には、将軍や織田信長など戦国武将も参拝したが天皇が行幸されることはなかった。
明治政府は全国神社の頂点として伊勢神宮を位置づけ、天皇の行幸参拝となった。明治天皇は八咫鏡をご覧になったという噂がある。また、昭和天皇は三種の神器の内「鏡」以外の「剣」と「玉」を持参して参拝された。
新嘗祭・大嘗祭
・ 起源・由来
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新嘗は『古事記』『日本書紀』では「爾比那閇」「爾波能阿」などと記述されるが、大嘗祭は記述無し。新嘗の起源は明確ではないが、『日本書紀』に天照大神が「新嘗」の神事を行ったとあるので古代よりの祭祀であった。
「天照大神當新嘗時」(『日本書紀』巻第一神代上)
新嘗(大嘗祭)の地上で最初の記述は、天から降りた邇邇藝命と地上で娶った神吾田鹿葦津姫の間に3人の子供が生まれた時に行われている。
「時神吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。」(『日本書紀』巻第二 神代下)
初代天皇神武天皇の条に新嘗の文字はあるが詳細は不明。『日本書紀』では新嘗の祭祀が行われたことが5回記述されている。ただし、日にちは定まっていない。十一月の二の卯の日に新嘗が行われた記録は皇極天皇元年(642年)十一月丁卯と天武天皇6年(677年)十一月己卯の2回である。『日本書紀』に続く『続日本紀』では十一月の二の卯の日に行われている。『令義解』(833年)では十一月の二の卯の日と定められている。このため、十一月の二の卯の日と定めたのは天武・持統天皇のころと推測される。
「四十(卅に縦1本追加)年 [中略] 是歳、當新嘗之月、以宴會日、賜酒於内外命婦等。」(『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇紀)
「二年夏四月乙巳朔丙午、御新嘗於磐余河上。」(『日本書紀』巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇)
「十一年春正月乙巳朔 [中略] 乙卯 [一の卯] 、新嘗、」(『日本書紀』巻第二十三 舒明天皇紀)
「十一月壬子朔 [中略] 丁卯 [二の卯] 、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗。」(『日本書紀』巻第二十四 皇極天皇紀)
「十一月乙丑朔、以新嘗事、不告朔。」(『日本書紀』巻第二十九 天武天皇紀下)
「十一月己未朔 [中略] 己卯 [二の卯] 、新嘗。辛巳、百寮諸有位人等賜食。乙酉、侍奉新嘗神官及國司等賜祿。」(『日本書紀』巻第二十九 天武天皇紀下)
「廃二新嘗会一。以二諒闇一故也。」(『続日本紀』神亀4年(727年)十一月丙辰条)
「謂。若有二三卯一者。以二中卯一為二祭日一。不三更待二下卯一也。」(『続日本紀』天平勝宝8年(756年)11月丁卯条)
「仲冬条・下卯大嘗祭 謂。若有二三卯一者。以二中卯一為二祭日一。不三更待二下卯一也。」(『令義解』二(神祇令)(833年))
・ 新嘗祭の変遷、室町時代に中断、江戸時代に再開
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新嘗儀礼は古くからあったが、天皇の自ら行う神事になったのは天武・持統天皇の時代からだと考えられている。その後平安時代に制度が確立した。
しかし、室町時代の応仁の乱等によって、執り行うことが困難となり、後花園天皇の1462年(寛正3年)の新嘗祭を最後に中断された。その後、経済的基盤を弱小化された天皇は大嘗祭や新嘗祭を執行することはなかった。
しかし、中世最後の新嘗祭から225年後の江戸時代の中期、東山天皇の1688年(貞享5年・元禄1年)に、江戸幕府の援助によって大嘗祭が再興した。これを契機に小規模ながら新嘗御祈として毎年行われるようになった。更に、50年後の桜町天皇の大嘗祭を契機に新嘗祭が再興された。
明治時代となり、京都で行われていた新嘗祭は明治3年から東京の皇居で執り行われるようになる。明治政府によって新嘗祭は天皇の祭祀から国家祭祀と拡大する。拡大に当たり、性格も新穀を天神地祇に供進し、その年の収穫に感謝すると変化した。国民の祝日となり、神社でも新嘗祭が行われるようになった。戦後は宮中祭祀として継続されている。
・ 天孫降臨と新嘗祭
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新嘗儀礼は古くからあったが、天皇にとって重要な神事になったのは天武・持統天皇の時代からだと考えられている。天武天皇は『古事記』と『日本書紀』の編纂を始め、天皇の子孫が日本を永遠に統治する根拠とした。その中でも「天孫降臨」が最も重要であり新嘗祭の行事に関連している。
「天孫降臨」とは、日本神話において、天照大御神の生まれたばかりの孫、「邇邇藝命(ににぎのみこと)」が、天照大御神の命を受けて葦原中国を治めるために高天原から天降ったこと。『古事記』と『日本書紀』に記述がある。ちなみに、邇邇藝命の天孫降臨の後、邇邇藝命の子「彦火火出見尊」(山幸彦)、その子「鵜草葺不合命」と受け継がれ、その子神武天皇が初代天皇となる。
この中で天照大神が孫に下した三大神勅が重要である。その三番目の稲を与え降臨させたことが新嘗祭と密接に関連している。
『日本書紀』による三大神勅とは
・天壌無窮の神勅
「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」
「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
・宝鏡奉斎の神勅
「吾兒、視此宝鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以為斎鏡」
「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。」
斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅
「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒」
「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。」
「天孫降臨は、皇室の御祖先が高天原から天降り、この国を豊かにそして平和に治められていく様子を語り伝えるものです。邇邇芸命は天照大御神さまより、高天原の稲を授かり、豊葦原瑞穂国の人々の食物にするように命じられました。この神話を私達の祖先は稲作の起源として語り継いできました。ここからも稲が日本人にとっていかに大切で神聖な食物であったのかを理解できましょう。」(『神社本庁HP』)
高天原から葦原の中つ国(地上)に降り立った邇邇藝命は「神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)」を娶り、火明命、火進命、火折彦火火出見尊という3人の子供(三柱)が生まれる。これは子孫ができたということであり。姫は占いで田を定め、その田(狹名田)の稲で酒を造り、同様に別の田(淳浪田)の稲からご飯を炊いて食した。天皇の大嘗祭の由来である。
「時神吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。」(『日本書紀』巻第二 神代下)
・ 新嘗祭の行事
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新嘗祭は宮中(京都御所、皇居)の神嘉殿(しんかでん)にて執り行われる(ただし、江戸時代は他の場所であった)。神嘉殿は天皇が天神・地祇(ちぎ)を祭る所であるが現在は新嘗祭だけが行われている。
神嘉殿は祭祀以外では神を祀らない。新嘗祭に際し、神嘉殿の本殿には儀式の用具が運び込まれる。伊勢神宮の方向に神座が設置され、対峙して天皇の御座が設けられる。夜には前庭に御燈として「庭燎(にわび)」が焚かれる。
神饌として米の蒸し御飯、米の御粥、粟の御飯、粟の御粥と新米から作った白酒と黒酒、これに加え鮮物・干物・果子・和布汁漬・鮑汁漬・和布羹・鮑羹・などが行列で控えている(行立)。酒や汁物は土器に、その他は柏の葉を重ねて竹ひごで閉じた窪手に盛られる。
新嘗では「夕(よい)の儀」と、「暁の儀」(現在はそれぞれ午後6時と午後11時に始まるが旧来は午後10時と午前4時に始まったので暁の名がある)の同じ儀式が2回行われる。
生糸織り立ての純白の「御斎服」に「御さく(巾へんに責)の冠」を被り、燭(松明)にてらされ、天皇は神嘉殿手前の隔殿に入られ(渡御)、神嘉殿の本殿に入り御座に着座される(着御)。
「お~し~」の掛声(警蹕)で神楽歌が始まり新嘗の儀式が始まる。祭祀は天皇が自ら行い他の者が見ることは出来ない(実際には二人の采女らが介錯する、皇太子をはじめ他の者は隔殿にて音を聞くのみである)。天皇は御手水の後、柏の葉で作られた枚手に竹箸を用いて、神饌を神々にお供えになる(御親供)。
神楽歌がやみ、御告文(ごこうもん)の奏上が行われる。御告文では、天照大神や天神地祇に対し、穀物をお供えし豊穣を、また、ご守護によって皇室や国が安泰なことを感謝する。
御告文奏上のあと、天皇も新穀の御膳を召し上がる(御直会)。御米飯、御粟飯、白酒、黒酒を聞こし召される。これは神人共食で、神と共に新穀を召すことにより、新穀に宿る穀霊を体内に取り入れるのである。
祭祀がすむと退場される(還御)。
平成の今上天皇が皇太子のとき読まれた新嘗の歌。皇太子といえども見ることは許されず音で祭祀を推しはかっている。
「新嘗の祭始まりぬ神嘉殿ひちりきの音静かに流れる」 「ひちりき」は神楽で使う管楽器
「歌う声静まりて聞こゆこの時に告文読ますおほどかなる御声」
新嘗祭に臨まれる天皇陛下(2013年11月23日)宮内庁
・ 大嘗祭
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大嘗祭は天皇即位後最初の新嘗祭のこと。大新嘗祭のこと。天孫が天照大神からいただいた稲の新穀を共に食することで、皇孫の継承者となる重要な日であり、1年をかけて大規模に執り行われる。ただし、準備期間の関係上、八月以降に即位した場合は次年に執り行われていた。
「七月以前即位者。当年行事。八月以後者。明年行事。」(『延喜式』卷第七)
大嘗祭は新嘗祭同様、天照大神の皇孫邇邇藝命(ニニギノミコト)の子孫誕生の時の祭祀を再現する。
「時神吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。」(『日本書紀』巻第二 神代下)
大嘗祭は「即位礼大嘗祭大典講話」[3]によれば以下のようになる。
国郡卜定(ぼくじょう)(即位時期によって二-九月)
悠紀(ゆき)国と主基(すき)国を卜定に依り決定。
皇都の東西からそれぞれ一国。
延喜式以降は近江国を悠紀国、丹波・備中を交互に主基国と固定化した。
「ゆき」「すき」の由来は『天武天皇紀』の「齊忌」「次」。
国が定まればその国の郡を卜定で定める。
検校・行事所
大嘗祭は悠紀国と主基国の国司が中心になって進める。このため、国郡卜定のあと国司により除目や叙位が行われた。検校、行事所の辯など必要な職司を任命した。特に物事を決める卜定や卜食(亀甲やシカの骨などによる占い)を行う行事所は重要な組織であった。
齊田卜定
抜穂使が派遣され、国郡から六段歩づつの田を卜定で定める。
段歩は律令化の土地の面積の単位で1段歩は11.7a。六段歩は約70aで、65mx108m程度である。
その田の四方に榊を植え、注連縄を張り巡らし、斎戒した人によって稲作が進められる。(抜穂使は一度帰洛する)
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大嘗祭執行奉告
大祓使が京・五畿七道に派遣され祓除を行う。その後、大奉弊使が伊勢神宮に派遣され全国の神社に弊帛を奉る。
機内、全国に大嘗祭の行われることを知らしめる。
由加物使。神服使(八-九月)
八月に由加物使が卜食によって選ばれた山野に派遣され大嘗祭で使用される食材(由加物)の手配がなされる。九月上旬には神服使が派遣され衣類関係が手配される。
抜穂(九月)
抜穂使が再度齊田に赴き、国郡司と大祓を行い、造酒童女(酒造りの長)、稲實公(飯を炊く男)、酒波(酒醸す女)を卜定により選び、その順に稲穂を抜かせる。乾燥させた稲穂から4束を御饌の料とし、残りを酒用とする。十月に国郡司、造酒童女等行列を作り稲穂を運搬し齊場院に納める。
荒見河祓(九月晦日)
荒見河祓は行事関係者の禊。人型に罪咎を移し河に流す。荒見河は実際の川の名前ではなく時々で決められた。
御禊(十月朔日)
天皇が河原に行幸されて行う禊を御禊という。時代で川は変わるが平安京以降は鴨川の二条・三条。
大規模な行幸で皇都の民に大嘗祭の行われることを知らせしめた。御禊は江戸時代以降の大嘗祭では再興されなかった。
大嘗宮造営の材料(十月)
卜定により大嘗宮造営のための木材や萱草などが手配される。
齊場院設営と料の運搬(十月、十一月)
齊場院は悠紀と主基のそれぞれの国司が設営し、手配された由加物や神服が運搬されてくる。平安京では北野に作られた(北野齊場)。
悠紀と主基それぞれに内院と外院があり、内院は八神殿、稲實屋、黒酒屋、白酒屋、倉代、贄屋、大焚屋、麹屋が、外院は多明酒屋、多明料理屋、倉代屋、供御料理屋、麹屋からなる。
また、服院が設営され神服を調成する。
運搬の行列の最初は繪服(にぎたえ、和妙)であり、既に待機している麁服(あらたえ、荒妙)組と合流し、神服殿に納められる。
他の材料も行列を作って運搬されるが、年々派手になり、平安京では行列の先頭の標識も大掛かり(標山)に、行列も千人を超えるようになっていた。
忌火のご飯(十一月朔日)
昨日までの日を捨て、新たに起こした火を清め、その日でご飯を炊き、儀式にのっとり膳を食す。
これは大嘗祭固有ではなく大事な行事のある六月、十一月十二月に毎年行われているが、この日は大嘗祭のために行う。
散齊(あらいみ)に入る(十一月朔日)
十一月朔日から散齊に入る。十一月中は仏事、弔問,病気見舞,肉食,刑罰,音楽,触穢(しよくえ)などが禁止された。それまでは三カ月前からであったが、延喜式で十一月朔日からとなった。祭日三日前には致齊に入る。
由奉弊使(十一月上旬)
伊勢神宮(後に男山・加茂神社が追加)に由奉弊使という勅使が派遣される。
大嘗宮造殿(七日前)
祭日の為に内裏・皇居の内に(時代で場所は異なる)大嘗宮が造営される。悠紀と主基それぞれで地鎮祭を行い、五日目には完成させる。造酒童女が齊鍬を行い、大嘗殿の四隅に穴を穿いて造営が開始された。大嘗宮は悠紀と主基それぞれが東西21丈(63m)・南北15丈(45m)の柴垣囲まれた土地に、それぞれ縦4丈(12m)・横1丈6尺(4.8m)の殿(悠紀殿と主基殿)、縦4丈(12m)・横1丈6尺(4.8m)の膳屋、縦1丈6尺(4.8m)・横1丈(3m)の臼屋、縦1丈5尺(4.5m)・横5尺(1.5m)の神服柏棚舎が建てられた。
その外には御湯浴のための廻立殿と釜殿が一棟建てられた。柱や門は黒木作り、屋根は萱葺であった。また、公卿の幄(テント)、内侍の幄が設営された。
平城宮の大嘗宮配置 関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
致齊((まいみ)に入る(三日前)
当日数えて三日前の丑の日から神事以外のいっさいを控える。また、言語も忌詞に言変えなければならなかった
大嘗祭(当日)
[準備]
朝、石上、榎井氏が兵士(内物部)40人を率い各門に盾・戟を立て胡床に就くなど衛兵が配置される。
[御燈]
酉の刻(日没時、午後6時ごろ)に悠紀殿と主基殿明かりが灯され、前庭に御燈として「庭燎(にわび)」が焚かれる
神服宿禰により神服が神座に奉納される。
[悠紀殿の儀/御湯浴]
戌の刻(午後8時ごろ)常の御装束である帛御衣に冠の天皇が鸞輿(らんよ、天子の乗る輿)に御し、廻立殿に「入御」される。天皇は天羽衣を羽織、湯船に降りられる。お湯浴みの後明衣を纏い上がられる。その後、御祭服に着替えられる。御祭服は生絹(生糸織り立て)の純白の「御斎服」に「御さく(巾へんに責)の冠」。足元は御襪(したうず)という白い足袋のみで沓は履かない。
廻立殿の内部関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
大嘗祭の御祭服 風俗博物館
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000167
御さくの冠 関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
[悠紀殿の儀/渡御]
「御祭服」を召して天皇は悠紀殿へ渡御される。通り道には8幅(約3m)の「布単」という白い布が敷かれ、お付きの者が萱の薦(こも、菰)を敷き広げる上を進まれる。天皇が通過したあとに後ろの者が萱の薦を巻き上げる。
こうすることで天皇のみが萱の薦の上を歩き(実際には下襲の裾を持つ関白は上を歩く)、行列前後の公卿たちが踏むことはない。天皇は御付きが差す御菅蓋の下を進む。この御菅蓋は大阪・深江が調進したものである。「昔、深江は良質の菅草が豊に自生する浪速の一島でしたが、第十一代 垂仁天皇の御代に、大和の笠縫邑より笠縫部が移住し、代々菅笠を作り、笠縫島と呼ぶようになったそうです。
以後、歴代天皇即位、大嘗祭の時は、天皇にさしかける御菅蓋(菅笠のこと)をはじめ、伊勢神宮式年遷宮に用いられる菅御笠、菅御翳(さしは)等、菅御料は、すべて深江から献納しています。」(『深江稲荷神社HP』http://fukaeinari.sakura.ne.jp/)
[悠紀殿の儀/奏]
吉野国栖(くず)12人、楢(奈良)笛工12人が古風を奏す。国司は歌人を率い国風を奏す。伴・佐伯宿禰(すくね)が語り部15人ずつを率い古詩を奏す。
[悠紀殿の儀/王臣の八開手]
皇太子、親王、大臣は公卿の幄に控えている。八開手(はちひらて)という、4回の柏手を八度、つまり三十二回打つ。
[悠紀殿の儀/稲春歌]膳屋にて稲春歌が奏せられる。造酒童女が新穀を臼屋において稲をつき(奉舂)、膳屋においてご飯を炊く。
高橋氏・安曇氏により膳屋において神饌の調理が行われる。神饌は御飯、米御粥、粟御粥、和布(わかめ)羹、蚫(あわび)羹、鮮物四種、干物四種。
近古大嘗祭悠紀殿渡御之図 関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
大嘗祭の御儀天皇陛下(昭和天皇)悠紀殿渡御 絵葉書.comから赤色を消して引用
https://xn--rovn41c3ze.com/show/ehagaki2_022061
御菅蓋 『深江稲荷神社HP』
「大嘗祭悠紀殿供饌之儀」京都大学所蔵 近代教育掛図
「大正天皇御即位大嘗祭図巻(渡御)」 斎宮歴史博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/da/index
「大嘗祭」 出典不明()
[悠紀殿の儀/供御膳]亥の一亥(午後9時ごろ)に料理が宮主、采女6人、内侍がにより悠紀殿に運び込まれる。悠紀の膳屋で調理された料理は東の門の近くに置かれた8脚の案の上に運ばれている。
天皇は御手水の後、自らの手で神饌を御親薦される。采女のうち最姫(陪膳)と次姫(後取)の二人が介助する。最姫と次姫により、神饌は柏の葉を 並べ重ねて竹ひごでとじた容器、窪手に盛り小高杯に載せ御食薦の上に置かれる。御飯が中央に置かれ、左に八種の鮮物・干物が置かれ、その左に果物が置かれる。汁物の羹は高杯の上におかれる。ここで最姫以外は退く。
この後は秘儀とされているが古書から様子が分かっている。
最姫は窪手の蓋を取り(羹以外)、その上に箸をおく。最姫は取り皿に当たる、数枚の柏の葉を竹ひごなどで刺しとじて円く作った葉盤を天皇に渡す。天皇はそれぞれの窪手からおかれた箸で御飯や料理を取り、最姫に賜る。最姫は御食薦にそれを置いていく。再度、最姫から葉盤が渡され、ご飯、鮮物・干物、お菓子、羹が取られおかれる。最後に瓶子に神酒を供する。
[悠紀殿の儀/御告文]天皇は拝礼し、御告文を奏する。
「伊勢の五十鈴の川のほとりにおはします天照大神天神地祇の諸の神たちに申して白さく。われ諸神の廣き護りによりて、国の中平らかに年穀豊かにして、高き卑しきを覆ひ、諸の民を救はん よりてことし新たに得たるところのにひものを奉る。又身の上犯すべき禍を未萌にはらひ除きて、さがなくあしき事侵し来たる事なからむ。又高き山深き谷所々の名を記してまじなひまつらむ。物皆悉くにけしほろぼさんこと、天神地祇の厚き護りを蒙りて致すべきものなり」(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』)
[悠紀殿の儀/御直會]天皇は神饌を食せられる。最姫はお箸を筥(箱)に納める。別のお箸を添える。天皇は頭を垂れ3度柏手を打ち、稱唯し(オーとご返答)、そのお箸で天皇は御飯を召しあがる。米を3はし、粟を3はしという。神酒を白4度、黒を4度度毎に柏手稱唯し召し上がる。
[悠紀殿の儀/神饌撤下]四刻(二時間)の後(午後11時ごろ)、宮主、采女6人、内侍が供物を撤収する。
[悠紀殿の儀/還廻立殿]この後、天皇は渡御と逆に還廻立殿に戻られる。
[主基殿の儀]も悠紀殿の儀の繰り返しである。子の刻(午前1時ごろ)に御湯浴が始まり、寅の一亥(午前3時)に供御膳、四刻後(午前5時)に還廻立殿と勧められる。
「悠紀殿」 関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
「悠紀殿」 国学院大学
「窪手・葉盤」 関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』
・ 白酒・黒酒
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白酒(しろき)・黒酒(くろき)。大嘗祭(だいじょうさい)や新嘗祭(にいなめさい)のとき、神田(じんでん)でつくった米で酒を醸し、神に供えて天皇も飲み臣下にも賜った。新嘗祭のお酒は天孫降臨した邇邇藝命の3人の子供が生まれた時、妻の神吾田鹿葦津姫が田を耕し稲を育て酒を造ったことに由来する。『 延喜式』「白黒二酒 ノ料 」によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に久佐木(恒山、常山木)の焼灰を加えて黒く着色した酒(灰持酒)であると記載されている。
・ 豊明節会
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豊明節会(とよあかりのせちえ)とは大嘗祭の3日後(午の日、辰の日は悠紀(ゆき)の節会、巳の日は主基(すき)の節会が行われた)、新嘗祭の次の日(辰の日)に行われた宮中儀式。天皇臨席の、いわば宴席で、白酒(しろき)・黒酒(くろき)が振る舞われた。 宴の最中、久米舞、古志舞、五節舞等が舞われた。
孝謙天皇天平 勝宝四年(752年)十一月二十五日新嘗祭の後、肆宴(とよのあかり)の催に読まれた歌。
「天地(あめつち)と久しきまでに万代(よろずよ)に仕へまつらむ黒酒白酒(くろきしろき)を」
『万葉集』巻十九 文室知努真人(ふみやのちののまひと)
・ 五節舞
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五節舞とは、大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で4~5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる舞。大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる。
天武天皇の時代、吉野に天女が現れて袖を五度振って舞ったとの伝説に依拠しているといわれている。また、『春秋左氏伝』昭公元年条に「先王之楽、所以節百時也、故有五節。遅速、本末以相及。」とあり、これを晋の杜預が「五節=五声」として先王が5つの音調を用いて楽を作って民衆を教化したと解している。このため、天武天皇は大陸の礼楽思想を取り入れる意図をもって五節舞を考案したとする説もある(『続日本紀』)。
卯の日の夜の舞以外にも、丑の日の「帳台試(ちょうだいのこころみ)」、寅の日の「御前試」、卯の日の昼間の「童女御覧」、辰の日(大嘗祭では辰巳の日に悠紀・主基節会があるので午の日)の「豊明節会」に「豊明節会」と連日毎が行われた。寛正5年(1465年)の後土御門天皇大嘗祭を最後に五節舞も中絶する。宝暦三年(1753年)、桃園天皇のとき再開された(新嘗祭は既に再開)。ただし「豊明節会」のみで舞姫は二人であり、名称も「大歌」であった。明治時代は舞は行われず、大正天皇以降は大嘗祭後の「大饗」のみで5人が舞うようになった。
平安初期には伊勢神宮の大祭において斎宮の侍女により五節舞がおこなわれた。(『皇太神宮儀式帳』)
昭和大禮記念絵葉書 逓信省記念絵葉書 昭和3年東北芸術工科大学東北文化研究センター
昭和大禮 豊楽殿 五節舞 昭和3年東北芸術工科大学東北文化研究センター
・ 明治・大正・昭和・平成の大嘗祭
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将軍から天皇へ時代が変わった明治以降の大嘗祭。
[明治天皇]
明治天皇の大嘗祭は明治4年11月17日(1871年12月28日)の二の卯の日に行われた。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)孝明天皇が崩御
慶応3年1月9日(同2月13日)践祚の儀を行い皇位に即く(満14歳)
慶応4年8月27日(1968年10月12日)京都御所にて即位の礼
慶応4年9月8日(1868年10月23日)改元の詔書
(改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用)
明治元年10月13日、明治天皇江戸行幸、、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改めた(東京奠都)
明治2年3月7日東京行幸
明治2年の東京行幸の時は翌年(明治3年)京都に戻り11月に大嘗祭をする予定であった。しかし、京都還幸は延期され明治4年3月に東京で大嘗祭が行われることが発表された。大嘗祭を東京で行うことは当時驚きをもって受け止められた。明治政府の東京遷都を表そうとする政治的意図だと考えられている。
明治天皇のもと『皇室典範』が明治22年2月11日に裁定された。また、即位の礼や大嘗祭に関する『登極令』1909年(明治42年)2月11日に発せられた。
「第11条 即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」(旧『皇室典範』)
「第四條 即位ノ禮及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ 大嘗祭ハ即位ノ禮ヲ訖リタル後續テ之ヲ行フ」(『登極令』)
[大正天皇]
『皇室典範』・『登極令』制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼・大嘗祭は、1915年(大正4年)11月10日と17日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。
[昭和天皇]
昭和天皇即位の礼・大嘗祭は、1928年(昭和3年)11月10日と17日に京都御所紫宸殿で行われた。
戦後、新憲法のもと新しい『皇室典範』が昭和22年5月3日に施行された。新『皇室典範』では神道を連想する行事などは宗教上の問題ということで項目として外された。大嘗祭もその一つである。
「大嘗祭等のことを細かに書くことが一面の理がないわけではありませんが、これはやはり信仰に関する点 を多分に含んでおりまするが故に、皇室典範の中に姿を現わすことは、或は不適当で あろうと考えておる」(『昭和21年12月5日 衆議院本会議皇室典範案第一読会 金森徳次郎国務大臣)』)
[今上天皇]
平成となり、新憲法と新『皇室典範』のもと今上天皇の即位の礼は1990年(平成2年)11月12日、大嘗祭は1990年(平成2年)11月22日・23日に皇居で行われた。儀礼は明治制定の『皇室典範』に関連する皇室令や『登極令』の附式に倣った。また、費用は国の予算から供出された。
「宗教上の儀式としての性格を有する と見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容 に立ち入ることにはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難であると考える」(『平成元年12月21日 閣議口頭了解』)
「大嘗祭を皇室の行事として行う場合、大嘗祭は、前記のとおり、皇位が世襲であることに伴う、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、皇位の 世襲制をとる我が国の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を 持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味にお いて、大嘗祭は、公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当で あると考える。」(『平成元年12月21日 閣議口頭了解』)
明治以降の大嘗祭Wikipedia+管理人
『登極令』
昭和天皇の大礼記念切手に描かれた、祭礼が行われた大嘗宮
千木が悠紀・主基で向きが異なっているWikipedia
・ 明治の大嘗祭では悠紀・主基の東西が入替った
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明治の大嘗祭では悠紀と主基が先例とは異なり東西が逆に設定され、大きな謎とされている。
悠紀・主基の齋國は従来それぞれ近江と丹波と東・西となっており、悠紀殿・主基殿もそれぞれ東・西となっていた。しかし、明治の大嘗祭では悠紀・主基の齋國も悠紀殿・主基殿もも東西が逆になっていた。
「唯爰に不審なるは悠紀殿、主基殿の入れ替わりて、悠紀殿を西に、主基殿を東に置かれたる事なり。そもそも悠紀・主基の御事たるや、皇都の東方に悠紀の齋國を、西方に主基の齋國を卜定せられし舊制に據る時は、当初安房国をもって悠紀とし、甲斐国を主基とせらるべく思わるるに、それすら悠紀を西方とせられたる、先規にはたがいたる。」(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』)
それもあってか明治42年に制定された『登極令』では元に戻すべく、悠紀・主基國が定められた。
「第八條 大嘗祭ノ齋田ハ京都以東以南ヲ悠紀ノ地方トシ京都以西以北ヲ主基ノ地方トシ其ノ地方ハ之ヲ勅定ス」(『登極令』)
この入れ替わりに関連しているかどうか不明だが、主基齋田に卜定された安房国長狭郡北小町村は明治22年に近隣との合併で由基村という名称となり、大正4年に主基村と改称された。
主其斎田跡公園の碑(鴨川市)房総の日々
http://takaki-i.blog.so-net.ne.jp/2009-02-26
・ 伊勢神宮の新嘗祭は明治から
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新嘗祭は天皇が天照大神や天神・地祇と食を共にし、神々や皇祖に、稲の豊穣の感謝、皇族の繁栄と国家の安泰を祈念する行事であるため、古代より伊勢神宮では行われなかった。明治政府の神祇政策により新嘗祭は新穀の供進へ趣旨替えされ、伊勢神宮でも行われるようになった。
「神宮では神嘗祭で新穀が奉られるため、新嘗祭はありませんでしたが、明治5年に勅使が差遣されて行われたのが始まりです。」(『伊勢神宮ホームページ』http://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/kinen.html)
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 「日本書紀」http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
[ 3] 関根正直「即位礼大嘗祭大典講話」、大正4年(国立国会図書館デジタルコレクション)
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.10.30] ORIGINAL