行事
・ 亥の子祭り
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亥の子は、旧暦十月の最初の亥の日(上の亥の日)のこと、あるいは、その日に行われる年中行事。亥の子祭りともいう。西日本で盛んである。十月は亥の月であり、この日は亥の月・亥の日である。
行事は「亥の子餅」を食することと「亥の子石」を地面に突くことが主要な行事である。地方によっては両方あるいはどちらか片方だけの場合がある。亥の子祭りは無病を祈願して餅を食する「玄猪」風習(「亥の子餅」)に春に里の下りてきた田の神を収穫が終わって山に返す旧暦十月十日の「十日夜」祭り(「亥の子石」)が合わさったものとみられる。
亥の子祭り「横川2丁目町内会」
http://blog.livedoor.jp/yokogawa2007/archives/51000685.html
・ 玄猪
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中国から伝ったとされる十月の亥の日に餅を食する風習。宮中や幕府で年中行事となっていた。亥の日は月に2回あるいは3回あり、それぞれ上亥、中亥、下亥というが室町時代までは全ての亥の日で行事が行われた。江戸幕府になって上亥、最初の亥の日となった。玄猪は亥の子とも呼ばれていた。
「玄猪ハ、ヰノコト云フ、十月中ノ亥日ニ行フ、後世幕府ニテハ、上ノ亥日ヲ以テセリ」(『歳時部』)
「初の亥日●(食へんに羔、餅のこと)を製して食ふ事あり、おほやけにも上の亥の日、内藏寮より御玄猪を奉る、あさがれゐにてきこしめす、御玄猪は亥子餅の名なり」(『日本歳時記』)
・ 十日夜
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旧暦十月十日の収穫祭。主に北関東から東北地方の行事。稲の刈り取りが終わって田の神が山に帰る日とされる。このため、稲の刈り取りはこの日までに終わることとされる。
祭りでは田の神に餅・ぼた餅が供され、稲刈り後の藁を束ねて藁鉄砲を作り地面を叩きながら唱えごとをする行事。
十日夜の藁鉄砲「日刊きりゅう」
http://www.ranhaku.com/web07/c4/3_02.html
・ 亥の子は西日本、十日夜は東日本
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京都の影響の強い西日本では亥の子が弱かった関東では十日夜が行われている。
亥の子・十日夜の行事分布「嵐山web博物誌」
・ 炉開き
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亥は陰陽五行説では水性に当たり、火の災難から逃れられるという信じられていた。火事が多かった江戸では亥の月の亥の日を選び、囲炉裏や炬燵を開いて、火鉢を出す風習があった。
茶の湯の世界でも、この日を「炉開き」といい、風炉の使用をやめて炉を使い始める。
宗旦の「茶話指月集」にも記述がなく茶の湯では元禄以降と考えられる。
炉開き「江戸伝統倶楽部」
http://www.edo-tcc.tokyo/tea/robiraki_8/index.html
田の神
・ 田の神
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田の神は稲作の神。東北地方では「農神」、甲信地方(山梨県・長野県)では「作神」、近畿地方では「作り神」、但馬(兵庫県)や因幡(鳥取県)では「亥の神」、中国・四国地方では「サンバイ(様)」また瀬戸内海沿岸では「地神」などとも呼ばれる。
・ 春秋去来の伝承
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稲作農民の間には「山の神」が春の稲作開始時期になると家や里へ下って「田の神」となり、秋の収穫後山に登って「山の神」になるという言い伝えが広く信じられていた。これを「田の神・山の神」の春秋去来の伝承という。なお、山村では「山の神」は山の領域を守護してくれる一種の地主神である。
田植えの時期の「御田植祭」は「田の神」を祀って豊穣を願う農耕儀礼であり、寺社の年中行事として伝えられる。
十日夜、亥の子祭りは収穫が終わり、「田の神」に感謝し山へ送り返す行事である。田の神に餅・ぼた餅が献じられるほか、藁づとや藁鉄砲、亥の子石で地面を叩く。
磯部の御神田「イチゴエミット」
・ 藁鉄砲や亥の子石を地面に打ち付けるのは日本書紀の景行天皇の九州遠征に由来がある
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日本書紀に景行天皇が即位12年(西暦82年)の旧暦十月に現在の大分県武田氏に侵攻した時に天皇に反抗する山中の土族(土蜘蛛)を、椿の木で槌を作り山を穿って草を払い退治したという。この椿の土を地面に穿つことが藁鉄砲や亥の子石の由来と言われている。十月の勝利の祝いが田の神の収穫祭に統合されたと考えられている。
「十月 到碩田國 [中略]
有女人 曰速津媛(はやつひめ) 爲一處之長 [中略]
是五人[土蜘蛛] 並其爲人強力 亦衆類多之 皆曰 不從皇命 [中略]
則採海石榴樹 作椎爲兵 因簡猛卒 授兵椎 以穿山排草 襲石室之土蜘蛛 而破于稻葉川上 悉殺其黨 血流至踝 故時人其作海石榴椎之處 曰海石榴市 亦血流之處 曰血田也」
「冬十月に、碩田國に到る。 [中略]
女人有り、速津媛と曰ふ。一處の長たり。 [中略]
是の五人は、並びに其の爲人強力くして、亦、衆類多し。皆曰ふ、『皇命に從はじ。』 [中略]
則ち海石榴樹を採りて、椎を作りて兵と爲す。因りて猛き卒を簡びて、兵の椎を授く。以て山を穿ち草を排ひ、石室の土蜘蛛を襲ひて、稻葉の川上に破り、悉に其の黨を殺す。血流れて踝に至る。故、時人、其の海石榴の椎を作る處を、海石榴市と曰ふ。亦、血流れる處を血田と曰ふなり。」
(『日本書紀』巻第七、引用:岩倉紙芝居館 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki17.htm)
玄猪
・ 玄猪は中国が起源と言われる
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起源は明確ではないが、中国に起源があると言われる。中国の秦以降に暦で採用されている三正・夏正の十月は亥の月に当たる。建亥という。亥の月の亥の日に餅を食すれば無病となるという。なお、中国ではこの習慣は現在は無く日本の風習として認識されている。平安時代以前に五行の風習として伝来し、日本で独自に発展したと考えられる。
「月令廣義に、五行書を引ていはく、十月亥日餅をくらへば、人をして病なからしむ」(『日本歳時記』十月)
「《雜五行書》曰:「十月亥日食餅,令人無病。」
・ 別の古代史の起源
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400年ごろ、猪が神功皇后を救い、その祝いだという。
「應神天皇の御代より、毎歳亥の月亥の日を祝ひたまひ、御亥猪の餅を奉るべき詔ありて」(『改正月令博物筌』)
「応神天皇の母神功皇后が国を治められていたころ、この地で国を揺るがす大きな戦争がありました。母神功皇后は窮地に追われましたが猪の群れがそこに現れ、敵方の対象を襲って皇后軍を救いました。
それを祝って毎年亥の月亥の日にもち米と小豆でお餅をついて御所に調進するようになりました。明治になるまで続いていたそうです。」(『豊能民話』)
「共出二菟餓野一。而祈狩之曰。祈狩。此云二于気比餓利一。若有レ成レ事。必獲二二良獣一也。二王各居二仮●(まだれに枝、床、仮床で桟敷)一。赤猪忽出之登二仮●(まだれに枝)一。咋二●(鹿の比の替りに弓と耳)坂王一而殺焉。」(『日本書紀』神功皇后摂政元年)
・ 平安時代には朝廷年中行事、天皇から家臣に賜った
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平安時代の法令集『延喜式』に載っていることから宮廷での年中行事となっていた。内藏寮が担当し、餅を献上した。
「此餅は内藏寮よりそなへ奉る、朝餉にてきこしめす、[中略] この事いつ比よりはじまるともみえず、延喜式に載たれば、往古よりはやありける事ならんかし」(『公事根源』)
「上亥日、内藏進レ餅事
亥子餅事 或記云、盛二朱漆盤〈立紙〉四枚一、居二御臺一本上一、女房取レ之供二朝餉一、次召二藏人所鐵臼一、入二其上一分擣、令レ爲二猪子形一、以レ錦裹レ之、挿二於夜御殿帳疊四角一、但臺盤所殿上料、内藏寮進」(『年中行事秘抄』)
・ 室町幕府でも年中行事
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このころには細かい形式が定まった。また、室町将軍は天皇から第一に餅を賜った。
「惠林院殿様〈足利義稙〉御代禁裏様御嚴重を、一番に御頂戴ありたき由上意にて、面々よりも前に、傳奏と申入て被レ參候也」(『殿中申次記』)
御亥ノ子諸家出仕様體之事殿中申次記
・ 江戸城でも年中行事
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白書院で将軍自ら御玄猪を賜る重要な行事であった。申刻(午後3時)から酉刻の終わりまで(午後7時)に登城。酉刻は既に暗いので篝火が焚かれた。
「十月初之亥日、御玄猪御祝、酉刻御長袴ニ而、御白書院〈江〉出御」(『嚴有院様御代覺書』)
「例年は申刻以後より酉刻迄之間に、不レ殘登城」(『享保集成絲綸録』)
「皆熨斗目長袴著て城にのぼる、暮かヽる頃より、白書院におほく燈を點じ、兩御所上段に著御在、五色の餅ひ薄盆に盛て、菊の花を摘そへて御前にすヽむ、布衣より以上の輩には、御みづから是を賜ふ、次に大きなるひら臺ふたつに、餅あまた積重て、しきみのきはにおき、布衣以下の司、もろもろの番士同朋に至る迄、七人づヽ出て、臺にある餅を取てまかづ」(『幕朝年中行事歌合』)
「十月 上亥日 玄猪御祝儀、諸侯申中刻御登城、大手御門、并に櫻田御門にて、御●(竹かんむりに冊、篝火)を焚せらる」(『東都歳事記』)
・ 江戸では一般に広まった
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玄猪は江戸時代には民間でも盛んとなっていた。
「此日民間にいたるまで●(食へんに羔、餅のこと)を製してくらふ」(『日本歳時記』)
「上亥日 玄猪御祝儀、 [中略] 貴賤餅を製し時食とす、〈武家にては公の例にならひて、白赤の餅を家臣に給るなり、町家にては、牡丹餅等製す、又中亥をも祝ふ、〉」(『東都歳事記』)
「民間歳節下 十月謂二之上無月一、玄日謂二之玄猪一、士庶作二●●(米へんに茲と羔)一以相饋送、」(『●(のぎへんに丸)苑日渉』)
・ 江戸時代最後の年に禁止
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大政奉還の年、慶應3年に禁止令が出た。
「慶應三卯年三月廿三日 御祝儀事御廢止之件々
河内守殿御渡 大目付
[中略]
玄猪
[中略] 右御祝儀御禮等御廢之事(『徳川禁令考』)
亥の子餅
・ 名称
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この日に食する餅を御玄猪、亥日餅、御厳重、亥の子餅などといった。
「亥日餅〈年中行事秘抄〉 亥子餅〈同上〉 御嚴重〈二水記、兩朝時令云、三條右大臣〈實條公〉江戸參向ノ時、羅山子道春ニ談ゼラレテ云、亥子餅イツクシクカサヌル故ニ、嚴重ト稱ス、嚴ノ字イツクシト訓ゼリ、シカルヲ俗ニ亥ノ日タルニヨツテ玄猪ト云、獻猪ト云ナラハスハ、無根ノ僻記ナリ、弘賢曰、御ゆどのヽ上の記に、けんしやうと書たるは、かなのたがへるなるべし、〉 豚之嚴重〈宣胤卿記〉 げんでう〈後水尾院年中行事〉 玄猪〈續谷響集云、玄猪或謂亥、猪也、冬屬レ水、故呼爲二玄猪一、弘賢曰、女房私記に、けんしよと書たるは、かなたがへり、〉 お玄猪〈雅筵酔狂集云、俗にお玄猪といふは、黒き猪といふにて、此包たる物の名にはあらず、いつよりか誤てしかり、又室町將軍家より此日餅に作り花など相そへ、いつくしく飾り、内々にて獻上あり、仍て御嚴重ともいふ、其外説々あり、〉 御亥子〈殿中申次記〉 御源猪〈年中定例記、かり字也、〉 御まいり切〈宣胤卿記〉 御成切〈御事始記、成氏年中行事、御事始記云、御なりきり共申、又御嚴重とも申なり、弘賢曰、ナリキリとは、喰さしを賜はるゆゑに、いひならはせし異名なるべし、喰さしを賜はるよしは、後水尾院年中行事に、御いきをかけらるヽと、みえたるも其意なるべし、年中定例記には、そも御口にあてられて、まいらせられ候を、賜はるよし見えたり、〉 おなれぎり〈大友興廢記、おなりぎりの轉語なり、〉」(『古今要覧稿』)
・ 朝廷の亥の子餅
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朝廷の儀礼では7種類の粉を練り合わせた餅を作った。源氏物語にも亥の子餅に触れた部分がある。餅は時代とともに5色となった。赤、白、黄、栗、胡麻。
「亥子の●(食へんに羔、餅のこと)七種の粉を合て作る、七種の粉とは、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖なり」(『掌中暦』)
「令レ爲二猪子形一」(『年中行事秘抄』)
「その夜さり、ゐのこのもちひまゐらせたり、」(『源氏物語』葵)
亥子餅「気ままに江戸」
http://wheatbaku.exblog.jp/24945476/
宮廷では黒赤白の餅が家臣等に下賜された。下賜用の御玄猪(餅)は「御まいり切」とか御成切と呼ばれ天皇の息が吹きかけられ、上位の者から黒、赤、白の順で与えられた。碁石位の大きさであったという。
「御げんぢやう〈戌の日の夜〉 白もち、赤もち、〈あづきの汁にて色付ル〉くろもち、〈くろごまにてあへる、あいかわらけに、高盛三ツ三方壹ツにのせ、それに御いきをかけ給ふ、〉 折敷合 へぎ板にて長サ七寸程、横四寸程、高サ三四寸、餅の内にあづきを入、なまづきあづきもち、米半分ほどはつぶにて有、是を箱の大サにきり、五ツかさね入、もちの間々へさヽの葉をしき、のせもちといふ、丹波國野瀬の里より上ル」(『禁中近代年中行事』)
「十月いのこの時、御まいり切とて、きんとんのやう成もち參候」(『宗五大草紙』)
「御玄猪 [中略] 御手づから御菓子を下し給へり、碁石形して色々に染たる餅也」(『類柑子』)
「御げんでうのいろは、公卿たる迄は黒白品々、殿上人は赤、五位殿上人已下は白」(『後水尾院當時年中行事』)
亥子餅の図
・ 江戸時代は武家は紅白、庶民は牡丹餅
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江戸の町では小豆を餅で包んだ亥の子餅ではなく、餅を餡子で包んだ牡丹餅が食された。
「武家にては公の例にならひて、白赤の餅を家臣に給るなり、町家にては、牡丹餅等製す、又中亥をも祝ふ、〉」(『東都歳事記』)
・ 能勢餅
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民間伝承では応神天皇のころからとある。文献では鎌倉倒幕・室町開幕ごろに詔があり、攝津の国能勢の村から朝廷に餅が献上されたとある(能勢は摂津にあるが文献にはたびたび丹後との誤記が見られる)。それ以前は猪が献上されていたことが考えられる(崇峻天皇に猪の献上があったのが592年の旧暦十月四日、この猪への発言で一月後に蘇我馬子によって暗殺される。関係は不明)。
「能勢 御玄猪餅調貢〈又御嚴重、玄猪餅、能勢餅ともいふ、能勢郡木代村切畑村より、毎歳十月に調貢し奉る、上亥日木代五戸より貢す、中亥日切畑八戸より貢す、若下亥日ある年は切畑八戸の内四戸より貢す、むかしは村長門大夫より調貢し奉る、元弘、建武、康安、應永年間の國宣あり、 [中略]
能勢餅製造〈當家の四壁に齋竹を立て、家宅を清め新菰を布、燧して先赤小豆を能煮て餅米を白精、甑にて蒸、赤小豆に交て●(搗くの意味の文字)粘す、事數十返也、製造の役人はみな々々袴を著し、覆面して●(次の下に食)となす、其色薄紅なり、これ豕の肉を表したるとぞ、
長さ六寸五分、幅四寸、深サ貳寸の筐に入、赤小豆の煮汁を上に引、其上に栗を切て、これを六ツ計程よく並べ置、又其上に熊笹の葉二枚を覆ひ、此如く幾重ねも重ね、
都て年々少々の増減あれども、凡貳百合計也、筐の數は、例年御所より仰出さる也、
これを唐櫃に藏め、錠に封印をつけ、注連を張、白幣を指、御用の御會符毎年頂戴してこれを立、淨衣を著する者荷ひ、壹荷に貳人宛、都て三荷、宰領の役人帶刀にて守護し、亥日前々日の夜半に里を出、山路嶮しき道を御紋の挑灯照らし、丹州龜山の驛より、公役の人足にて、例年の定刻亥日の前日未の刻、禁裏へ參著し奉る、其時御料理御酒を賜ひ、下行として米三十俵拜賜とぞ聞へし、〉」(『攝津名所圖會』)
亥子餅調貢の図
能勢餅と下賜用の御成功「御朱印収集人」
http://kazu1950.blog.fc2.com/blog-entry-1534.html
亥子餅輸送路Yahoo地図
関連
・ 仁清の玄猪包香炉
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野々村 仁清(にんせい)は、江戸時代前期17世紀の陶工。仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れ、大振りの作品が多いが香炉のような彫塑的な作品にも優れている。その一つに「玄猪包香炉」がある。御玄猪は紙に包まれ水引の間に鴨脚(イチョウの葉)を挿して賜った。それを模して香炉にした。
「別鴨脚葉一枚記下所二頒賜一之諸家交名上、而挿二所レ結之水引間一」(『年中恒例記』)
仁清の玄猪包香炉(写 高野昭阿弥作)原田茶具商店
・ 炉開き(植物)
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ユキツバキと茶の自然交配雑種。樹高3m、主幹がなく株立ち。原木の樹齢は100年以上で、新潟県栃尾市にある。
葉はチャの葉にそっくりで、実際にチャに特有のカフェインやテアニンを含有している
花経は4cmほどで5~6升の一重平咲き、秋と翌春に淡いピンク色花が咲く。
茶道で炉を開く行事「炉開き」の頃に花が満開になるのにちなんで命名された。
炉開きの花草木図譜
http://aquiya.skr.jp/zukan/Camellia_cvs.html
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 歳時部
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.10.17] ORIGINAL