「お中元」
・ 「中元」の由来は中国道教
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中国道教の行事「三元」に由来する。三元は「上元」「中元」「下元」の総称で、道教の3神の誕生日を祝う日である。「中元」は旧暦7月15日であり、地官大帝(もしくは赦罪大帝)の誕生日。罪が赦される贖罪の行事が催される。また、地官大帝は地獄の帝であり、死者の罪が赦されるよう願う行事も催された。
中国に伝来した仏教が「中元」を取り込み「盂蘭盆会」を広めると(仏教には本来お盆の行事はない)、この二つが習合する。それが日本に伝来し「お盆」となった。
三元[wikipedia]
・ 「お中元」は江戸時代の商人の風習が起源
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「中元」の起源は「歳暮」と同じ。江戸の商人が盆暮れの掛け金取り立ての時に挨拶として進物を持参した。これを「中元」と呼んだことに起源がある。明治30年代に百貨店が興隆する中で「お中元」が商業戦略の宣伝として使われ一般化した。
・ お中元の時期は地方により異なる
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お中元の時期が地方によって異なる。これは新暦・旧暦のお盆時期、「八朔」の習慣などが影響しているためである。江戸の「中元」習慣が残り百貨店が多かった東京では新暦の7月15日までであり、これは東北地方に広がる。旧暦の習慣が残り、古くからの「八朔(8月1日)」習慣が残る関西を中心に旧暦7月15日を意識した新暦7月15日から8月15日までお中元が送られる。
お中元とお歳暮の時期「気になるあれこれ。。」
http://kininaruarekore.com/archives/3108.html
・ 関西や西日本では8月1日からお中元の挨拶
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「八朔」の伝統が残る関西や西日本では8月1日からお中元の挨拶を始める人が多い。八朔とは八月朔日のことであり、この日の農家が田の神に感謝した祭事「田の実」が、「頼み」にかけて、日ごろお世話になっている人に贈り物をする風習と結びつき、公家や武家社会でも行われた。この八朔贈答をお中元と言い換えるようになった。
「八朔」
・ 八朔の起源、田実節、田面節、恃怙節、憑節供
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八朔とは八月朔日のこと。日本固有の風習。古くから農民が初穂の実の入った杯でお酒を飲み豊作を祈願した「田の実」の儀式が起源とされる。その後、鎌倉時代、建長年中(1249-1256年)に後嵯峨院に初穂を献上したことで宮中にも知れ渡り風習として取り入れられた。
「中世農民獻稻初穗於禁裏」(『日次紀事』)
「はじめは田のみとて、よねを打敷かはらけなどに入て、人のもとへつかはしける」(『公事根源』)
「此事後嵯峨院御時ヨリ初ル事也、未御里ニ御座アル時、諸臣ヨリ當年ノ田ノ實ト云テ、米初尾ヲ獻ズ」(『内院年中行事』)
稲穂の「田の実」から転じて「頼み」となり、上の者、特に天皇へ進物差し上げることが風習となった。
田実節、田面節、恃怙節、憑節供ともいわれた(恃怙や憑は頼れるものという意味)。
稱二八朔一、又稱二恃怙節一、又謂二憑節供一、或稱二田實節一、又號二田面節一 (『日次紀事』)
「古人以二田實初收一相餉、謂二之恃怙一、」(『空華日工集』)
・ 現代でも八朔祭りが残っている
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八朔は五穀豊穣を祈願する日であり祭りがも行われた。現在でも、各地に祭りが残っている。旧暦の8月1日、新暦の9月1日ごろに開催される。京都松尾大社の八朔祭りが有名である。
京都松尾大社の八朔祭そうだった。京都へ行こう
http://ameblo.jp/musickyoto-soul/entry-11921480522.html
・ 室町時代には宮中にて八朔の贈答が盛んになった
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当初は天皇あるいは天皇家への進物であったが、時代とともに宮中一般の人々がお互いに広がった。
「八月朔日 タノモノ御祝トシテ、色々ノ物、院中、宮々方へまいらせラル、又方々ヨリモ獻レ之、御盃事如レ常」「依今ニ諸臣女官マデモ遵レ之也」(『内院年中行事』)
室町時代には公家に加えて幕府の大名たちも進物を送るようになる。
「一御憑 禁裏様[天皇]へ御進上、〈目録在レ之、大高檀紙一枚、伊勢守調レ之、〉御使傳奏、御返まいる、御使同前、攝家、門跡、公家、大名、外様、御供衆、總番衆、頭人、奉行、其外ことごとく進上、地下衆、職人、御牛飼、河原者、さんしよの者まで、似合の物を進上、...」(『年中定例記』)
「八月朔日
一 公家、大名、外様、御供衆出仕、御對面在レ之、
一 御憑在レ之、目録別紙有レ之、
一 初(禁裏様ヘ參)?(魚へんに完、アメ[アマゴ])一折例年進二上之一〉 佐々木四郞三郞
一 木練(コネリ)一籠〈例年進二上之一〉 西林院
一 同一籠〈例年進二上之一〉 報恩院(宇治)
一 同一籠〈例年進二上之一〉 鶴原五郞
一 柘榴一折〈例年進二上之一〉 等持寺
一 松茸一折〈例年進二上之一〉大光明寺
一 初鴈一(禁裏様ヘ參)〈例年進二上之一〉 朝倉彈正左衞門尉
一 初鴈一〈例年進二上之一〉 武田伊豆守」(『殿中申次記』)
・ 江戸では八朔は特別な日だった
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天正18年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸城入りした。このため八朔は江戸の武士にとって特別な意味を持った年中行事となった。
「天正十八年庚寅 今年八月一日、臺駕 [家康] はじめて江戸の御城へ入らせ給へり、そのころは、御城の邊葦沼汐入等の地にして、田畠も多からず、農家寺院さへ所々に散在せしを、慶長に至り、始て山を裂地をならし、川を埋め溝を堀、士民の所居を定め給ひしより、萬世不易の大都會とはなれり」(『武江年表』)
これを記念する八朔は年頭の挨拶と同様の重要な日で、白帷子長袴でご挨拶に江戸城に登った。刀の目録などを献上する武士で溢れていたとされる。旧暦では八月が2回ある事があり(閏月)、2回目の時は染帷子半袴だったという。
「卯中刻登城、諸大名白帷子長袴、閏月之朔日には染帷子半袴、獻上御太刀目録」(『官中秘策』)
八朔参賀図歳時部
・ 八朔として将軍家から馬が天皇に献上されていた
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室町時代に将軍家から天皇に馬が献上された。それ以降江戸幕府からも馬の献上された。
「將軍家[足利氏]御馬獻上 是毎歳自二將軍家一八朔ニ御馬獻上也」(『故實拾要』)
「慶長八年將軍宣下ありて、その年八朔に、太刀御馬を進獻し給ひし事、御湯殿上日記に見ゆ、それより以來は、世々太刀馬を進上せらる」(『高貴八朔考』)
・ 江戸吉原では八朔に遊女は白小袖を着た
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起こりに関しては諸説ある。
「今日吉原遊女、一般に白小袖を著して仲の町へ出る」(『東都歳事記』)
八朔之図『青楼絵本年中行事』十返舎一九編著、喜多川歌麿画
国貞「江戸新吉原八朔白無垢の図」東京都立図書館
・ 京都祇園に残る「八朔」
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京都の花街・祇園において、芸舞妓さんたちが黒紋付の正装姿で、師匠や日頃からお世話になっているお茶屋さんに「おめでとうさんどす。どうぞ相変わりませず、おたの申します」挨拶に回る伝統行事がある。
京都祇園の八朔京都観光・旅行から画面コピー
http://kyototravel.info/%E5%85%AB%E6%9C%94
その他
・ 「ハッサク(八朔)」
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柑橘類のハッサク(八朔)の命名は1889年で、八朔のころ食べられるようになったからと言われる。江戸時代末期に尾道市因島の浄土寺で発見された原木が広まった。
浄土寺にある八朔顕彰碑[Wikipedia]
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 歳時部
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.10.10] ORIGINAL