お彼岸の由来
・ 日本固有の行事である
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お彼岸は日本固有の二十四節気に関連した雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)という。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」という。
江戸時代の『倭訓栞』に
「彼岸會といへり、されば七日の佛事、日本にのみ行はれて、西土天竺にはなき事成よし、」
・ 彼岸の語源
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パーリ語でパーラミー、サンスクリット語でパーラミターは「完全であること」、「最高であること」を意味する語で、仏教における各修行で完遂・達成されるべきものを指す。中国では波羅蜜あるいは波羅蜜多と表す。日本では到彼岸と翻訳した。
『大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘』巻第十二
「問曰、云何名檀波羅蜜滿。答曰、檀義如上説。波羅(秦言彼岸)蜜(秦言到)是名渡布施河得到彼岸。」
[問うて曰く。何故檀波羅蜜満と云うのですか。答えて曰く、檀の義は、先に説いた通り。波羅(彼岸)蜜(到る)、是れを布施の河を渡って、彼岸に到るという意味だ。]
『倭訓栞』彼岸に
「大般若經に、即便前進得レ到二彼岸一と見ゆ、我邦上代に、般若波羅密會行はれし、生死を此岸とし、涅槃を彼岸とし、波羅密を到彼岸と飜す、」
・ 彼岸と此岸
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彼岸とは大海の向こうにあり、今いる私たちの世界を此岸(しがん)という。
『大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘』巻第十二
「此六波羅蜜能令人渡慳貪等煩惱染著大海到於彼岸。以是故名波羅蜜。」
[この六波羅蜜は、能く人をして、慳貪等の煩悩、染著の大海を渡りて、彼岸に到らしむ。以って、これゆえ波羅蜜といわれる。]
「此岸是世間。彼岸是涅槃。」
[此岸とはこれ世間なり。彼岸とはこれ涅槃なり。]
・ お彼岸は春分秋分を中日として七日間
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夕日の土着信仰と西方極楽浄土が結びついてお彼岸が出来たといわれる。春分秋分のほぼ真西に沈む夕日を見て極楽浄土を思い、そこを望み、行った故人をしのんだと考えられている。
お彼岸が七日間なのは浄土三部経に書かれているからである。
浄土三部経の一つ『阿弥陀経』に
「若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏、與諸聖衆、現在其前、是人終時、心不顛倒、即得往生、阿弥陀仏、極楽国土」
[もし善良な男性女性が、阿弥陀仏の名号が説かれるのを聞いて、その名号を心にしっかりとどめて、もしくは1日もしくは2日ないしもしくは7日の間、心を一つにして乱れないならば、その人が臨終の間際に、阿弥陀仏は多くの聖者と共にその人の面前に出現される。そしてこの人が命終わろうとするとき、心が惑うことなく直ちに阿弥陀仏の極楽国土に往生することできる。]
また、古代から春分秋分がお彼岸の中日であった。
江戸時代に貞享暦の編纂に先立って過去の暦日を編纂した渋川春海『日本長暦』上巻(~697年)に
「二季彼岸事二八月中〈ヨリ〉前三日也、沒日〈アレハ〉四日〈メニ〉來、專〈ラ〉善根日也、」
江戸前期の天野信景による随筆『鹽尻』
「昔は春分秋分の日を中日にあたるやうにせし事、安倍家の暦本に見ゆ、」
・ 彼岸の日にちは時代で異なった
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彼岸の中日が春分秋分となるように彼岸の入りは決められた。ただし暦の編纂方式などで時代によって暦の日にちは異なっていた。
二十四節気を決めるのに冬至から翌年の冬至までの時間を24等分して導き出す平気法と、黄道と天の赤道の交点すなわち春分点を基点として黄道を24等分し太陽の通過を基準に定めた定気法があった。当初は平気法が使われたが天文学の発展とともに中国では隋の時代に定気法が提唱された。また、朝廷は中国の平気法の暦を採用したがそこには経度などの地理的な差は考慮されていなかった。この差を考慮した和暦が作られたのは江戸時代になってからである。
[宣明暦(862~1684年)]
800年近い長期にわたって使用された宣明暦は長期間使用されたが見直しがされることもなく中国の暦と差がみられた。例えば江戸時代の宣明暦は二十四節気が二日遅れていたという。朝廷で定めるお彼岸の日にちは中国歴の春分秋分を基準に決めていたため宣明暦の春分秋分とずれていた。
はっきりしているのは江戸では春分秋分から数えて三日目を彼岸の入りとしていたことである。その日が陰陽道で定められた凶日である没日(もつにち)の場合は四日目としていた。
江戸前期の天野信景による随筆『鹽尻』
「昔は春分秋分の日を中日にあたるやうにせし事、安倍家の暦本に見ゆ、近世は春秋二分より三日目をその初にし、六日目を中日とす、九日目を終りとす、古へは彼岸に入る日、沒日に値れば、一日を延て次の日を入りとせし故實也、」
[貞享暦(1685~1754年) ]
江戸時代になって定められた初めての和暦、貞享暦でも、春分秋分から数えて三日目を彼岸の入りとしていた。ただし、貞享暦では没日はなくなった。
随筆『鹽尻』は続いて
「貞享暦、沒日を用ひず、いつとても二分一日を隔て、彼岸の初とす、」
[宝暦暦・寛政暦(1755~1843年)]春の彼岸の入りは春分から六日前、秋の彼岸の入りは秋分から二日前。宝暦暦では彼岸の入りに関しては定気法に依る春分秋分を彼岸の中日となるように決めた。このため彼岸の入りは定気法の春分秋分を用いたが、暦の春分秋分は平気法という折衷となり春と秋で彼岸の入りが異なっている。
『善庵隨筆』に
「 暦家ノ説ニ、二十四氣ヲ一年ニ割付ル、平實ノ二法アリテ、本朝ノ暦ハ平氣ヲ用ヒ、唐土ノ暦ハ實氣ヲ用ユ、故ニ本朝ノ春秋分ハ平氣ニシテ、實ノ春秋ニアラズ、實ノ春分ハ、平春分ヨリ三日前、實ノ秋分ハ、平秋分ヨリ三日後ニアリ、實ノ春秋分ハ、太陽赤道ヲ行キ、晝夜等分ユヘ、此日ヲ彼岸ノ中日ニ當テヽ、平春分ヨリ六日前、平秋分ヨリ二日前ヲ彼岸ニ入ル日トスルコトナリ、」
[天保暦(1844~1872年)以降現在]初めての定気法をもとにした和暦。春分秋分を彼岸の中日とした暦。秋分春分は定気法による。天保暦によって以前から定気法を用いたお彼岸の入りは変わらなかったが以前は平気法で決まっていた春分秋分の日が変わった。
・ 平安時代初めての彼岸会法要が行われた
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806年、崇道天皇の為に諸国の国分寺の僧に命じて七日金剛般若波羅蜜多経を読ませたのが初めての彼岸会法要といわれる。
『類聚三代格』に
「太政官符
應三五畿内七道諸國轉讀金剛般若經事
右被右大臣宣称、奉爲崇道天皇、令三永讀件經者、宜使下國分僧春秋二仲月別七日存心奉讀之經、并僧數附朝集使言上上、其布施者、三寶調綿十屯、衆僧各調布一端、自今以後、立爲恒例、
延暦廿五年三月十七日
」
・ お彼岸は季節の変わり目でもあり貴族社会で広まった
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春分秋分は昼夜が同じ時間であり昼間が長くなったり短くなるということは広く知られ寒い冬や暑い夏の終わりとして季節の変わり目を感じる時期でもあった。このため仏教行事であると同時に季節を知る目安でもあった。
『源氏物語』「二十九 行幸」
「かくのたまふは、二月ついたちごろなりけり、十六日ひがんのはじめにて、いとよき日なりけり、ちかう又よき日なしと、かうがへ申けるうちに」
『源氏物語』「四十七 總角」
「廿六日、ひがむのはてにて、よき日なりければ、」
・ お彼岸は江戸時代には庶民にも広まりお墓参りが定着した
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もともとお彼岸は日の沈む西の向こうにある極楽浄土に行くためにお布施を施したりする7日間であった。江戸時代に寺請制度とともに、お寺参拝に加えて極楽浄土にいるであろう先祖を思う気持ちから墓参りが盛んとなり定着した。
彼岸行事等
・ 六波羅蜜
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彼岸には中日を除く6日に六波羅蜜を1日一つずつ行う。
六波羅蜜とは、大乗仏教で説く彼岸に到るための六つの修行徳目のこと。六度、六度無極、或は六到彼岸とも言う。
布施波羅蜜 - ダーナ=檀那(だんな)は、分け与えること。即ち財施、無畏施、法施を行う。財施とは、財貨を施す、法施とは、他人の為に法を説く、無畏施とは、他人をして安心させ畏怖をなくすこと。
持戒波羅蜜 - シーラ=尸羅(しら)は、戒律を守ること。律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒を持す。
忍辱波羅蜜 - クシャーンティ=?(尸ダレに羊3個)提(せんだい)は、耐え忍ぶこと。耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍を修する。
禅定波羅蜜 - ディヤーナ=禅那(ぜんな)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。現法楽住静慮、引発神通静慮、饒益有情静慮を修す。
智慧波羅蜜 - プラジュニャー=般若(はんにゃ)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。縁世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧を得ること。
『大智度論』巻第四
「六波羅蜜滿。何等六。檀波羅蜜.尸羅波羅蜜.?(尸ダレに羊3個)提波羅蜜.毘梨耶波羅蜜.禪波羅蜜.般若波羅蜜。」
・ 六阿弥陀廻
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「六阿弥陀廻」とは、春と秋のお彼岸の期間に、行基が熊野から流れついた霊木一本から作ったという伝説のある、阿弥陀像を祀った6ヶ所の寺院を巡り極楽浄土を願うことで、江戸の人々の行楽の一つだった。「六つに出て 六つに帰るは 六あみだ」と川柳に詠まれた。六つは明け六つ、暮れ六つのことで日の出日の入りの時刻である。
『江戸名所図会』
「春秋二度の彼岸には、六阿彌陀廻とて、日かげの麗なるに催され、都下の貴賤、老たる若き打群つヽ、朝とく宅居を出るといへども、行程遠ければ、遲々たる春の日も長からず、秋はことさら暮やすうおもはるべし、」
彼岸、六阿弥陀廻「江戸名所図会」巻之1-7 長谷川雪旦 画図
彼岸、六阿弥陀廻、無量寺「江戸名所図会」巻之1-7 長谷川雪旦 画図
風物
・ おはぎとぼたもち
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ぼたもち(おはぎ)をお彼岸に食べる風習は江戸時代に始まった。赤い色の「あずき」は古くから邪気を払うと信じられ、塩で煮た餡などが祭祀で食されていた。江戸時代中期から砂糖の量産が始まり、民衆にも手に入るようになり砂糖で煮た甘い餡が広まった。彼岸に先祖の墓参りをするようになった江戸時代に彼岸のお供えとして定着した。
「倭漢三才図会」に「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」とある。春のお彼岸は牡丹の花のような形の漉し餡の「牡丹餅(ぼたもち)」である。半殺し(蒸しもち米を軽く突いたもの)を丸め漉し餡をヘラで付けると、ヘラ跡が牡丹の花の様に見えるので牡丹餅(ぼたもち)という。秋のお彼岸は萩の花のような皮が見える粒餡の「御萩(おはぎ)」である。半殺しを丸め粒餡を付けて丸める。 そうすると表面につるつるした小豆の皮の粒々が表れ、それが萩の花に似ているから「萩の餅」「萩の花」そして「御萩(おはぎ)」が一般的になった。
このように春のお彼岸の牡丹餅は漉し餡、秋はお萩は粒餡である。 秋には収穫直後の小豆が使用でき皮も柔らかく味の濃厚な粒餡ができる。 一方、冬を越えた小豆は皮が硬く、皮を除いた漉し餡が使われたからである。最近は保存技術が進み漉し餡・粒餡は年中あり、季節感が薄れ、ぼたもち・おはぎの区別も曖昧になっている。
春秋以外での呼び方。 川士清(ことすが。1709-1776)編の辞書『倭訓栞』に、「牡丹餅は春の名、夜船は夏の名なり。萩の巻は秋の名なり、 北窓は冬の名なり。夜船は着くを知らず、北窓は月入らずとぞ」。言葉遊びの夜船と北窓は流行らなかった。
ぼた餅「綾部のぼたもち」みやき町観光協会
おはぎ「つぶあんおはぎ」笹屋商店
牡丹(右)と萩(左)
・ 彼岸花・曼珠沙華
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日本ではお彼岸の頃に咲くので彼岸花といわれる。古代から曼珠沙華と呼ばれ、彼岸花は江戸時代以降に定着した名前といわれる。
曼珠沙華は仏教で天上に咲く花。サンスクリット語に漢字を当てはめた。純白で,見る者の悪業を払うといわる。しかしながら、日本ではほとんど深紅色である。
北海道から琉球列島まで日本全国に見られるが、自生ではなく、稲作とともに中国から伝来し帰化した。このため日本に存在する彼岸花は全て遺伝的に同一で、中国から伝わった深紅色の曼珠沙華1株から広まったと考えられる。なお、三倍体であるため種子で増えることができない。
鱗茎は有毒であり土の小動物や虫などをを避けるために畦や土手に植えられた。
棚田の彼岸花「明日香村稲渕の彼岸花」イチゴ ハクションをもう一度???
白い彼岸花(曼珠沙華)「寺坂棚田(平成25年)」歩楽里よこぜ(横瀬町観光サイト)
その他
・ 俳句の「彼岸」は春の季語である
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俳句で「彼岸」と言えば、春の彼岸をさす。秋の方は「秋彼岸」と言って区別する。
「我村はぼたぼた雪のひがんかな」一茶
「風もなき秋の彼岸の綿帽子」鬼貫
・ 「時正」
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:一日の昼夜の時間が等しい時、すなわち、春分と秋分。また、春と秋の彼岸のこと。::
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 歳時部
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.04.05] ORIGINAL