古代中国の端午節日
・ 端午とは5日のことである
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「端」は「ハジメ」という意味。「端五」(=「初五」)から「端午」になったと考えられる。
『燕京歳時記』
「初五為五月単五、盖端字之転音也」
晋の周処による『風土記』に
「仲夏端午、烹鵞角麦黍」
[仲夏は五月のことで仲夏端午は五月五日の意味]
・ 端午の節句は5月5日(重五)の節日
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漢(前漢 BCE 206年 - 8年、後漢25年 - 220年)以前から七月七日のように月と日の数字が同じ日である重日は天地が交流する日であった。春秋戦国時代(BCE 770~BCE 221年)に発生した陰陽五行思想では奇数は陽、偶数は陰であり、七月七日のような奇数の重日は陽+陽=陰の忌み日であり忌払いの祭祀が行われた。陰陽五行思想のもと一、三、五、七、九の重日は五節日として重要な宮中行事が行われた。
・ 端午の節日は薬草摘みを行ったりする夏季を迎えた疾病厄払いの日であった
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この頃は新暦で6月の中旬前後であり秦の咸陽や長安では気温が高くなり、物が腐り、蠅が増え、病気が発生、死者も増える月であった。
『荊楚歳時記』に
「五月五日、謂之浴蘭節、四民並踏百草之戯、採艾以為人 懸門戸上 以禳毒気、以菖蒲或銚或屑以芝酒」
〈五月五日は蘭の入った湯を浴び、野に出て薬草を摘み、蓬を採り人の形にして門に掛け、以て毒気を払った。菖蒲を以ちい、刻んだりもっと細かくして酒に浮かべる。〉
[このため五月五日の節日には薬を準備し邪気を払いこれからの来る夏に備える日であった。]
清 金廷標 群嬰斗草図軸
西安の気温と雨量『ZenTech』
・ 五月五日は最悪の日とされた
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陰の忌み日の重日の中でも五月五日は最悪の日とされた。中国で悪日といえばこの日のことであった。
『荊楚歳時記』に
「五月俗稀悪月、多禁、忌曝床薦席、及忌蓋屋」
この日に生まれた子は親殺しをするといわれ捨てられたりしていた。これに関する文献の多い。
・ 五月五日は愛国の士、屈原が入水自殺した日
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屈原(BCE 343年 - BCE278年5月5日)は、中国春秋戦国時代の楚の政治家、詩人。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、讒言(ざんげん)により次の頃襄(けいじょう)王の時に追放され、放浪の果てに、汨羅(べきら)江に身を投じたという。「楚辞」に約20編の詩がある。代表作「離騒」「九歌」「天問」「九章」など。
・ 五月五日に中国でドラゴンレースが開催され粽を食すのは屈原の伝説に由来する
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伝説では屈原の入水の知らせを受けた楚の民は、舟を浮かべ太鼓を打ってその音で魚をおどし,ちまきを投げて死体を魚が食べないようにしたという。
南方の水郷地帯では,竜舟競渡(ドラゴン・レース)が行われるが,屈原の屍を救いあげる〈撈屍(ろうし)〉の行為が祭礼化したものとされる。竜舟は,船首に竜の彫刻や飾り物を施した舟で,競漕という娯楽としての要素のほかに,水死者の霊を慰め,同時に蛟竜水獣を鎮めて,水害を防ぎ,雨を乞い,五穀の豊穣を祈ったものである。
粽(粽子)は5~6世紀頃の中国に始まる。初めは水神のささげ物とされたが,後に屈原の伝説と結びつき,彼の命日にキビの餅をマコモで巻いて牛の角の形にしたものを湖や川に投ずるようになった。
唐玄宗《端午三殿宴群臣》
「四時花鏡巧,九子粽争新」
観競渡
裏角黍
竜舟競渡大公網 http://news.takungpao.com.hk/hkol/topnews/2013-06/1684541.html
九子粽TAIPEINAVI http://www.taipeinavi.com/food/163/
日本伝来
・ 日本でも節日となる、最初の記録は推古天皇の薬猟
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中国から端午節が伝来し、節日の一つとして宮廷で行事が行われた。
833年の『令義解』に
「凡正月一日、〈中略〉五月五日、〈中略〉皆爲節日」
最初の端午の節句に関する記述は『日本書紀』の推古天皇の「薬猟」である。
「十九年五月五日、藥獵於莵田野 取鷄鳴時 集于藤原池上」
・ 薬猟から宮中の騎射となる
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天皇が自ら狩りに出かける薬猟から天皇が武徳殿に臨幸して衛府の官人の騎射を御覧になられるようになった(後の流鏑馬)。この競馬会式は寛治7年(寛治7年1093年)に上賀茂神社に移された。今でも上賀茂神社の競馬(くらべうま)神事が行われている。
『徒然草』第四十一段に
「五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざり」
賀茂葵競馬図屏風文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216333
賀茂競馬(かもくらべうま)京都新聞
・ 宮廷の端午の節会は、疾病払いであった
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『公事根源』に
「五日節會
天皇武徳殿に出御なりて宴會をおこなはれ、群臣に酒を給ふなり、内辨なども四節に同じ、人々みなあやめのかづらをかく、日蔭のかづらのごとし、典藥寮あやめの御案をたてまつる、群臣に藥玉をたまふ、五色のいとをもてひぢにかくれば、惡鬼をはらふと申本文侍るにや」
・ 武士にも引き継がれ、邪気を払うために門外に兜や武具、幟を飾った
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『幕朝年中行事歌合』に
「端午參賀
端午は、軒毎にさうぶ蓬をさしはさむ事は、都鄙のへだてなし、出仕の人々皆長袴著て、ことぶきをのぶ、其式上巳にかはる事なし、此日より麻の御ぞを奉れり、」
・ 武士の家では男の子が誕生したときは特に端午の節句を祝った
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江戸時代には男の子が誕生すると端午の節句でお祝いした。
『幕朝年中行事歌合』に
「端午參賀
「若君誕生あれば、兩御所をはじめ、御方々より菖蒲冑を參らせられ、國主外様譜代の大名よりも是を獻ず、北のとのヽ前なる大路に假屋を建、壇をまうけて是をすゆ、其數いくもヽちなる事をしらず、白地に御紋の旗二十ながれ、紅白の吹ながしなど風にひるがへり、傍に鑓薙鉈弓矢なぐひの類、すべて兵仗いかめしく立つらねたるけはひ、實に武門の有様也けりと見ゆ」
・ 江戸時代に座敷に兜などを飾るようになり、外では鯉幟が立てられるようになった
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江戸時代には門に立てられた飾り物が華美となり、倹約令によりこれが禁止され、冑や人形が座敷に飾られるようになった(内飾り)。外飾りである幟は町民文化の中で鯉幟が出現し、盛んに立てられ大型化していった。
1648年の『御触書 諸商売之部』に
「一,五月節句之甲結構蒔絵梨子地金物糸類仕間敷候,縦何方よりあつらへ候共,仕間敷候,御城様え上り申候甲は不苦候事,
一,小旗之儀,絹布一円仕間敷候,布木綿ハ不苦候事,
一,いかにもそそふ成人形貳つ三つ有之かふとハ不苦候事」
周延『江戸砂子年中行事 端午之図』
・ 江戸時代に発展し、男子の節句として広く祝われるようになった
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他の節日同様、江戸時代に町民に広まり盛んになる。町民独自文化として鯉のぼり、五月人形などが出現する。武家にもこれらは広まり、男子の節句として発展し、現在の形がほぼ出来上がった。節句の前には市が立ち飾り物が売られた。
『東都歳事記』に
「(四月)廿五日 今日より五月四日迄、冑人形、菖蒲刀、幟の市立、〈場所は三月の雛市に同じく、往還に小屋を構へ、甲冑、上り冑、幟旗挿物、馬印、菖蒲刀、鎗長刀、弓箭、鐵砲、偃月刀、其外和漢の兵器、鍾馗像、武將勇士の人形等を售ふ、夜にいたれば、燈燭にかヾやきてうるはしく、買人晝夜にたえず、 再刻の江戸總鹿子に云、通鹽町、昔は此町にて冑人形細工人多く、鹽町人形と號し、其製麁なり、價の賤を以、田舍人のもてはやしける、今はこの名をだに知る人稀なり云々、 此節より菖蒲刀、街を賣歩行、〉」
日本橋通りの両側に面した「十軒店」は江戸時代、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことに由来した。5月の節句には幟,鐘馗旗,一本立鯉幟,吹流,青龍刀,座敷幟枠,菖蒲太刀,兜など、人形や玩具を売る店が軒を並べていた。
十軒店冑市東都歳時記
菖蒲、薬狩、くすだま
・ 端午節会では菖蒲(あやめ)を用いた行事が行われた
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『歳時部』五月五日
「五月五日ハ節日ニシテ、端午ト稱ス、朝廷ニ於テハ節會ヲ行ヒ、中務宮内ノ二省ヨリ菖蒲ヲ獻ジ、皇族及ビ臣下ニ藥玉ヲ給ヒ、宴ヲ賜フ等ノ儀アリ、中世以後此儀絶エタレドモ、猶ホ節日トシテ菖蒲ヲ獻ズルコトアリ、藥玉ハ五綵ノ絲ヲ以テ、菖蒲艾等ヲ貫キシモノナレドモ、後ニハ時花若シクハ造花ヲ以テ飾レルモノアリ、又菖蒲ヲ屋上ニ葺キ、或ハ鬘ト爲シ、枕ニ用ヰ、之ヲ湯ニ投ジテ浴ミ、之ヲ酒ニ和シテ飮ム等ノ事アリ、皆邪氣ヲ避クルノ法トセリ、」
・ 万葉の時代から薬猟、薬狩、競い狩りが行われた
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五月五日に野に出て鹿の角や薬草を採取(中国の斗草)したりしていた。日本書紀に推古天皇のときに薬猟が行われたとある。
『日本書紀』推古天皇
「十九年五月五日、藥獵於莵田野 取鷄鳴時 集于藤原池上 」
『万葉集』大伴家持の
「加吉都播多(カキツバタ)、衣爾須里都氣(キヌニスリツケ)、麻須良雄乃(マスラヲノ)、服曾比(キソヒ)獵(カリ)須流(スル)、月者伎爾家里(ツキハキニケリ)」
「かきつはた衣に摺り付け丈夫(ますらを)の着襲(きそ)ひ狩りする月は来にけり」
〈ますらおたちが、かきつばた染の衣服を着て、山野で薬草を採る行事をする月がいよいよやって来たなあ〉
・ 菖蒲輿や菖蒲縵など厄払いに菖蒲が使われた
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宮中では五月五日に菖蒲を謙譲したり賜ったりした。菖蒲を活け、それを鬘のように被った。
『内裏式』に
「五月〈乃〉五日〈乃〉昌蒲草進申賜申」
『古今要覽稿』に
「あやめのこし〈菖蒲輿〉 あやめのこしは、五月三日平旦、六衞府より禁中へ奉れり、藥玉料昌蒲蓬、〈惣盛一輿〉と、〈延喜近衞府式〉みえたるを始とせり、これよりして、あやめのこしの名目おこれる也」
『公事根源』に
「人々みなあやめのかづらをかく、日蔭のかづらのごとし」
・ 厄払いとしてくすだま(薬玉)が飾られた
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薬玉とは薬草を束ね糸を垂らしたものである。五月五日に飾り九月九日に菊の束に交換した。
『延喜式』に
「凡五月五日藥玉料、菖蒲艾雜花十捧」
『古今要覽稿』に
「くすだま〈藥玉〉 くす玉は、そのはじめ漢土よりおこりて、皇朝にも世事となれり、さてその造なせるさまは、ふるくは五綵の糸にて、菖蒲艾などを貫たるもの也」
『枕草子』36段に
「節は、五月にしく月はなし。〈中略〉きさいのみやなどには、ぬひどのより御くすだまとて、いろいろの糸をくみさげてまいらせたれば、みちやうたてまつる、もやの柱の左右につけたり」
『源氏物語』でも
「〈五月〉五日には、〈中略〉くす玉などえならぬさまにて、所々よりおほかり」
『公事根源』
「五日節會 群臣に藥玉をたまふ、五色のいとをもてひぢにかくれば、惡鬼をはらふと申本文侍るにや」
薬玉はきれいな袋に入れられるようになる。『禁中近代年中行事』に
「五日藥玉 藥玉色々のきれにてふくろをぬひ、三ツ作り花に付る、作り花大サ一尺計
後に薬ではなく香木などを入れた「におい袋」となる。
『后宮名目』に
一藥玉之法
麝香〈一兩〉 沈香〈一兩〉 丁子〈五十粒〉 甘松〈一兩〉 龍腦〈半兩〉 右者和家之傳
麝香〈半兩〉 沈香〈一兩〉 丁子〈一兩〉 甘松〈二匁〉 霍香〈二匁〉 白檀〈三匁〉 龍腦〈二匁〉 右者丹家之方
藥玉一聯〈十二〉閏月のある年は十三
一粒の大さ、〈これ程にてさぶらふ也、
袋は用二錦或紅練(ベニネリ)一、紐は攝家は白く、清華羽林家は紫、其以下は縹色(ハナイロ)を用ひ侍る也」
速水春暁『斎諸国図会年中行事大成 薬玉全図』
渓斎英泉の『十二月の内 五月 くす玉』国立国会図書館蔵
・ 葺菖蒲
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夏に発生する毒虫や火災を防ぎ、邪気を払うため、五月四日の夜に軒に菖蒲を葺いた。平安時代、宮廷で始まり、その後武士や庶民にも広がった。
『古今要覽稿』
「軒のあやめ〈葺菖蒲〉 五月四日の夜、軒にあやめふく事は、中むかしよりはじまれり」
『枕草子』
「せちは 五月にしくはなし、さうぶよもぎなどのかほりあひたるもいみじうおかし、こヽのへの内をはじめて、いひしらぬたみのすみかまで、いかでわがもとにしげくふかんと、思ひさわぎてふきわたしたる、猶いとさまことにめづらし、いつかことおりはさはしたりし」
『日本歳時記』
「四日 國俗今日艾菖蒲を屋ののきに挟む、 按ずるに、歳時記に、五月五日艾をむすびて、人の形のごとくして戸上にかくれば、毒氣をはらふと見えたり、國俗艾菖蒲をのきに挟むも、かヽる遺意なるべし、」
菖蒲葺き(あやめぶき) 加茂花菖蒲園http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/bunka.htm
・ 菖蒲鬘(あやめのかづら)
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。端午の節会(せちえ)に、邪気を払うものとして、菖蒲の飾りを男性は冠につけ、女性は髪にさした。
『延喜式』
「凡同日〈五月五日〉節會、文武群官著昌蒲蘰」
『古今要覽稿』
「あやめのかづら〈菖蒲鬘〉
あやめのかづらは、五月五日未明、禁中に糸所より獻ずるを、天子かけ給ひて武徳殿に行幸ましまし、例の節會行はる、内外の群官も皆かくる事なり、是は時の疫邪惡氣などをさけんためにせしめ給ふ也、これ往古よりの仕來りなりし」
『萬葉集』
「保止止支須(ホトトギス)、支奈久五月能(キナクサツキノ)、安夜女具佐(アヤメグサ)、餘母疑可豆良伎(ヨモギカヅラキ)、佐加美都伎(サカミツキ)、安蘇比奈具禮止(アソビナグレト)」
『公事根源』
「五日節會 天皇武徳殿に出御なりて宴會をおこなはれ、群臣に酒を給ふなり、内辨なども四節に同じ、人々みなあやめのかづらをかく、日蔭のかづらのごとし、」
・ 菖蒲湯
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邪気を払うために、菖蒲の根や葉を入れて沸かす風呂。根に効用があり葉に香りがある。
『古今要覽稿』
「あやめの湯〈蘭湯〉 あやめの湯は、菖蒲の根葉をきざみて湯に入て、五月五日に浴する事なり」
国貞 『五節句ノ内 皐月』.gif
・ 菖蒲酒(あやめざけ)
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日本酒に菖蒲の根を浸した端午の節句の厄除けのお酒を飲んだ
『古今要覽稿』
「あやめざけ〈菖蒲酒菖華酒〉 菖蒲酒は、あやめの根の一寸九節のものを取てこまかにきり、縷のごとくになして、さけに汎て五月五日に飮ば、瘟氣或は蛇蟲の毒をさくるよし」
葺菖蒲 加茂花菖蒲園http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/bunka.htm
・ 菖蒲打
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端午の節句の男の子の遊び。ショウブの葉を編んで縄状にし、地面にたたきつけて大きな音の出たものを勝ち、または切れたほうを負けとした。
『東都歳事記』
「〈五月〉五日 端午御祝儀、〈中略〉貴賎佳節を祝す、〈(中略)小兒、菖蒲打の戲れをなす、〉」
歌川国芳の揃物「稚遊五節句之内 端午」
・ 菖蒲の根合(あやめのねあわせ)
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菖蒲を集めて、その根の長さなど優劣を競った。上賀茂神社の競馬(くらべうま)神事の一つとして行われている
『扶桑略記』の後冷泉天皇に
「永承六年(1051)五月端午日、殿上侍臣、左右相分(あいわかれ)菖蒲合事有り、和歌五首」
上賀茂神社 菖蒲の根合 ガイドブックス京都https://gbooks.jp/article/5558
・ 菖蒲枕(あやめのまくら)
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邪気を払うまじないとして,菖蒲を枕の下に入れて寝た。平安時代の風習。
『古今要覽稿』
「あやめのまくら〈菖蒲枕〉 五月五日、菖蒲をもて枕にしく事は、中むかしよりはじまれる事也、〈中略〉凡五月五日、あやめ草をもて屋の軒にふき、或はかづらとなし、或は續命縷につくり、或は枕にしく事、皆時の邪氣をさけはらはん爲に用ゐらるヽなり、菖蒲は辟瘟氣と〈荊楚歳時記〉みえたり〈中略〉枕のつくりかたは、菖蒲をたけ五六寸ばかりにきりて、五寸廻りばかりに、跡さきをかみひねりにて結びて、兩方の小口によもぎをさし挟むよし、後水尾院當時年中行事にしるさせ給へり」
あやめのまくら 泉丸http://blog.livedoor.jp/hakusuimaru/
・ 現代のアヤメ、花菖蒲、カキツバタは菖蒲とは異なる植物
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昔は菖蒲のことを「あやめ」といったため現在でも混同される。アヤメだけでなく花菖蒲やカキツバタとも混同される。薬用効果のある菖蒲はサトイモ科であり、アヤメ科のアヤメ、花菖蒲、カキツバタとは異なる種類である。
いづれがアヤメかカキツバタ定年独身男のUターン日記http://blogs.yahoo.co.jp/akg26833/40349469.html
粽、柏餅
・ 粽の古代漢字は米を集めるという意味
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漢字では米偏に集めるという意味の旁(つくり)。中国では米を集め笹で巻いた。現在同様お米の形が残っている。
古代では黍をマコモ(菰)の葉でまいたが時代とともにもち米(糯米)が用いられるようになった。
明朝の『本草綱目』に
「古人以菰蘆葉 裹黍米、煮成尖角〈中略〉近世多用糯米矣」
粽の古字
中国の粽Wikipedia
・ 日本には平安時代に伝来し、茅(チガヤ)で巻くので「ちまき」と名付けられた
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茅は萱を葺くために用いられたイネ科の植物の総称として用いられ、チガヤやマコモなども含まれる。
『浪花の風』に
端午には、〈中略〉茅卷を用ゆ
灰汁で煮ることで殺菌力や防腐性を高めた保存食となった。
平安時代の『倭名類聚抄』に
「〈和名知萬木〉風土記云、粽、以菰葉 裹米、以灰汁 煮之、令爛熟也、五月五日啖之」
・ 日本では粽の由来として二つの伝承がある。屈原と高辛氏悪子である
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屈原の由来は中国でも広く知られているが日本では「高辛氏悪子」説の記述も見られる。
屈原由来は『續齊諧記』に
「五花絲粽 屈原五月五日 投汨羅水、楚人哀之、至此日 以竹筒子貯米投水 以祭之」
高辛氏の悪子説は、平安時代後期の『掌中歴』に
「五月五日*[草冠に全]纏(チマキ) 高辛氏惡子、乘船渡海、忽暴風、五月五日沒死其靈成水神、以色糸*[草冠に全]纒 投海中、變化五色蛟龍、海神惶隱敢不成害海中、」
並記されているのが『世諺問答』に
「五月 問て云、けふ〈五日〉ちまきくふは、何のゆへにて侍るぞや、 答、むかし高辛氏の惡子、五月五日に、舟にのりて海をわたりし時、暴風にはかに吹て、なみにしづみけるが、水神となりて人をなやましけるに、ある人五色の糸にて、ちまきをして海中になげ入しかば、五色の龍となる、それよりして海神人をなやまさずと申つたへたり、または屈原汨羅にしづみ魚腹に葬せし、楚人のまつりし供物とも申にや」
・ 日本では江戸時代ごろからうるち米やその砕いたものが用いられるようになる
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日本に伝来したころは糯米が用いられた。
平安時代の格式である『延喜式』に
「五月五日節料 粽料、糯米」
江戸時代に白米が広まると粽の材料も変化した。
江戸時代の『日本歳時記』に
「〈五月〉四日、沐浴、粽を製すべし、餌粽を製するには、もちよねを用ひず、粳米をきはめて白くし、細末して沸湯にてこね作り、又沸湯にてにる、又うるし米と、もち米等分にして水にて和し、沸湯にて煮もよし、凡ちまき餌などは、米を磨にて引たるはわろし、臼にてつき、末してよし」
江戸時代の粽Wikipedia
・ 江戸時代、江戸を中心に柏餅が広まる
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柏は神聖な木とされ、また、新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起を担いだ。節句の贈答品でもあった。
江戸時代には現在と同じ作り方で、米粉をこねて扁平とし、小豆餡か味噌餡を二つ折りに包み、柏の葉で二つ折りに包んだ。
『俳諧歳時記』に
「江戸の俗、端午に*(食偏に甘)を製し、裏に餡を裹み、楢の葉を以これを覆ふ、名づけてかしは餅といふ」
『守貞漫稿』に
「京坂ニテハ、男兒生レテ初ノ端午ニハ、親族及ビ知音ノ方ニ粽ヲ配リ、二年目ヨリハ柏餅ヲ贈ルコト、上巳ノ菱餅ト戴ノ如シ、〈中略〉 江戸ニテハ初年ヨリ柏餅ヲ贈ル、三都トモ其製ハ米ノ粉ヲネリテ圓形扁平トナシ、二ツ折トナシ、間ニ砂糖入赤豆餡ヲ挟ミ、柏葉大ナルハ一枚ヲ二ツ折ニシテ包レ之、小ナルハ二枚ヲ以テ包ミ蒸ス、江戸ニテハ砂糖入味噌ヲモ餡ニカヘ交ル也、赤豆餡ニハ柏葉表ヲ出シ、味噌ニハ裏ヲ出シテ標トス」
柏餅の文献の初出は1659年頃刊の仮名草子、浅井了意『東海道名所記』。葛飾北斎の五十三次にもある遠江白須賀から三河二川に至る間の猿が馬場の条に
「柏餅,こゝの名物なり。あづきをつゝミし餅,うらおもて,柏葉にてつゝミたる物也」
国芳「五節句の内 月見ぬ月」(柏の葉が描かれている)
東海道五十三次 二川Wikipedia
北斎 白須賀 二川へ二里半味の素食の文化センター所蔵
・ 江戸時代、京都では笹(篠)粽が広まる
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京都では熊笹の葉で巻いて香りを楽しむ笹粽が広まった。
1806年ごろの『諸國圖會年中行事大成』に
「五日端五〈中略〉 今日良賤粽を製して祝ふ事は〈中略〉 〈其製いにしへは、茅をもつて卷し故、ちまきといふ、今京師は鞍馬山の奧より出る隈篠の弱葉をもつて、團子をつヽみ、藺(イ[グサ])をもつてこれを卷、爾して甑に入蒸ば、篠の香團子に移りて、味ひ尤よし、是を篠粽といふ、京師專らこれを用る故、四月下旬より此篠を持出、市中を賣歩行者多し、」
この後「大坂其餘田舍にては、蘆の葉にてまく葦粽といふ、又菰にてまくもあり、菰ちまきと云、<中略>、又一種團子を柏の葉つヽみ蒸す、柏餅といふ、是も柏の香移て味ひよし、武家專ら用レ之、」と大阪や武家はそれぞれ菰ちまきと柏餅を食していることが記述されている
笹(篠)粽
菖蒲冑、菖蒲刀
・ 武士の家では邪気を払う菖蒲人形の代わりに菖蒲冑を立てた
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邪気を払う菖蒲人形として武家では幟、馬印や甲冑刀、菖蒲兜、人形を戸外に飾り立てた。
『和漢三歳圖會』に
「端午 此日毎家 立旗及甲冑刀等兵器、〈俗呼曰冑人形〉其刀以菖蒲飾之、仍號菖蒲刀也、荊楚歳時記云、荊人皆踏百草、採艾爲人、懸於門上、以禳毒氣、此與冑人形 趣相似矣」
菖蒲冑歳時部
・ 江戸中期以降、門に立てる菖蒲冑や幟の飾り物が町民に広まった
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江戸中期以降、町民が勢力を伸ばし宮中や武士の行事を町民文化として広まった。菖蒲冑や幟などの飾り物を家の入口に飾った。市中には端午の節句のころ飾り物の商売で賑わった。
『東都歳事記』
「五月五日 端午御祝儀、〈中略〉貴賤佳節を祝す、〈(中略)武家は更なり、町家に至る迄、七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、冑人形等飾る。〉」
端午市井図東都歳時記
葛飾北斎「端午の節句」個人蔵
・ 元禄時代の倹約令により座敷に菖蒲冑などを飾るようになった
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端午の節供飾りは町民に広まるとともに華美となった。幕府の倹約令があり、元禄のころから座敷に小形の幟などの前に菖蒲冑や人形類を並べ飾るようになった(内飾り)。
勝川春潮 「端午の節句」
・ 菖蒲刀
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甲冑と一緒に菖蒲刀が飾られた。菖蒲刀は刀を菖蒲で包んだものや刀の柄に菖蒲を巻き付けた飾り物である。
北斎 「端午の節句」
・ 冑は本物ではなく紙製や工芸品であった
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邪気を払う冑は飾り物であり、本物の冑を用いるのではなく紙の厚紙から凝った工芸品まであった。
『日本歳時記』
「今日菖蒲のかぶと太刀をもてあそぶ事も、此祭をまなぶとなり、されば此事、むかしは厚き紙に人形をほり付、薄き板を胄の形にこしらへ、〈中略〉近年は風俗美巧をこのみて、〈中略〉甲胄をきせ、劒戟をもたせ、戰鬪の勢をなさしめて戸外にたて侍る、是をかぶとヽいふ」
『守貞漫稿』
「今世ノ飾リ鎧兜、其製金革ヲ用ヒズ、厚紙ヲ重子張リ、胴草摺小手脚當用之テ製造シ、或ハ切小ザ子ノ如ク、其他種々外見眞ノ甲冑ノ如ク、蠶ノ組糸ヲ以テ威之、紙張リ表ニ漆シ、或ハ黒ヌリ、又ハ鐵粉ヲ塗リ、所ニヨリ鉑ヲ押シ蒔繪ヲ描キ、金メツキノ銅具ヲ打テ精製ナルアリ、大サモ著用ニ足ルアリ、又ハ小形モアリ、粗製ハ紙張ノ表ニ、緋縮緬等ヲ張リ製スモアリ、今日ノ飾具足、及ビ其他武器、摸造ノ諸物、總テ京坂ノ方花美精製ヲ用フ家多ク、江戸粗製多シ」
幟、鯉幟、武者人形
・ 武士の家では邪気を払うため菖蒲冑とともに旗印や馬印、幟を立てた
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平安中期以降、宮中行事が薬猟から競馬になるとともに武士の家では菖蒲冑とともに旗印や馬印、旗指物を門前に立てた。馬印(うまじるし)は、戦場において、武将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印。旗の形をしたものは旗印という。流れ旗は戦場において軍団を識別するために長い布の短辺に気を通し竿から釣ったもの。幟は流れ旗の長辺を竿に結んだもの。
「大猷院殿御実紀』に後の将軍家・家綱の初節句の様子が記述されている
「けふ家門諸大名より献ずる菖蒲兜を疱所へかざり。旗十五本。白旗五本。白地御紋の旗五本。家門より献ぜられし旗五本。高矢倉の 前にたてらる。」
右から七番目が政宗の旗印、六番目が馬印 Wikipedia
・ 江戸時代、鍾馗や金太郎などの武者絵の幟を立てるようになった
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江戸時代の節句の祝いは町民への広がった。家紋を持たない町民は勇ましい武者絵を描いた幟を立てた。また、寺社への寄進も盛んにおこなわれた。
邪気払いという意味合いから鬼退治の源頼光、頼光四天王の渡辺 綱、坂田金時(金太郎のモデル)や中国の鍾馗(しょうき)であった。
鍾馗は、中国の民間伝承に伝わる道教系の神。瘧(マラリア)に罹った唐の玄宗皇帝の夢に現れ鬼を退治し皇帝を病魔から救ったとされる。明代末期ごろから端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。日本に伝来し、主要な幟として多く立てられた。鍾馗が鬼を退治している図が多い。また、邪気を払うということから朱色の鍾馗も多い。
当時は布が高価だったため主に紙に描かれた幟旗が多かった。このため現存するのは数少ない。
葛飾北斎 「五月の景」
鳥居清長 「子宝五節遊・端午」
右は「鐘馗」 左は喜多川歌麿 「端午」右は北村勝史氏所蔵 左は東京国立博物館蔵
・ 武者絵の人形を座敷に飾るようになった
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倹約令で座敷に飾り物を置くようになり、幟の武者絵を人形にして飾るようになった。
香蝶楼国貞「豊歳五節句遊・端午の節句」 国立国会図書館所蔵
錦絵「子供遊端午のにぎわい」 作者不詳
・ 端午の幟旗には摩(まねき)に吹き流しが付けられていた
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吹き流しは源平の時代には背中に背負うことで矢除けであった。銃が使われるようになった戦国時代ころには魔除けと考えられていた。このため邪気除けの幟の上部に飾られるようになった。
菱川師宣画「大和耕作絵妙」
・ 江戸では幟に鯉の摩(まねき)が付けられるようになる
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江戸時代に町民に男子の節句として広まると登竜門の伝承から鯉の吹き流しが付けられるようになった。この伝承は中国の黄河上流(山西省河津県と陝西(せんせい)省韓城県との間)の急流である竜門を登りきった鯉は竜となるというものである。
『東都歳事記』
「紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也、出世の魚といへる諺により、男兒を祝するの意なるべし、たヾし東都の風俗なりといへり」
磯田湖龍斎 画 「色錦姿の花年中行事」
葛飾北斎 「風流子供遊五節句 さつき」
・ 江戸後期には鯉の吹き流しを竹の先につけて、鯉幟が立てられるとうになった
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幟旗は武家のものだったので町民は鯉だけを竹の先につけるようになった。これが時間とともに巨大化していく。江戸末期には武家でも鯉幟を立てるようになった。
歌川豊国「意勢固世見見立十二直 建 皐月初幟 暦中段つくし」
歌川広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」
河鍋暁翠 「五節句之内 皐月」
・ 江戸時代は男子を表す真鯉のみ、明治になって緋鯉が加わり、昭和に入り家族を表しカラフルになった
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江戸時代は子供の成長と出世を願い登竜門の昇り鯉として真鯉のみであった。明治になり当時染色できた緋鯉が加わり、真鯉と緋鯉の対で立てられた。
昭和に入り童謡で「大きな真鯉はお父さん、小さな緋鯉は子供たち」と真鯉は子供から父親となる。戦後、真鯉が父、緋鯉は母、青い鯉は子供たちとなる。東京オリンピック以降に緑など更に色が増えたといわれる。
また、江戸時代は紙製が中心であったが、明治に入り布製が主流となった。現在は耐水性が高いポリエステルが多い。なお、吹き流しが流されるのはポールがその重みに耐えられるようになった最近のことである。
明治時代の真鯉と緋鯉
昭和6年の童謡
真鯉はお父さん、緋鯉はお母さん、青鯉は子供
カラフルな鯉のぼり
・ 鯉のぼり @2015
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1. 戦前から鯉のぼり生産日本一は埼玉県加須市
2. 日本一(=世界一)の鯉のぼりは1988年2月に加須市で作られた長さ100メートル・350kgのもの
3. 鯉のぼりの川渡しの発祥地は四万十川中流の高知県高岡郡四万十町十川で1974年(昭和49年)のことである
4. 日本一(=世界一)の鯉のぼりの掲揚数は5,000匹以上揚げられる群馬県館林市の世界一こいのぼりの里まつりで掲揚数世界一で2005年にギネス世界記録に登録された
四万十川鯉のぼりの川渡し maylog http://mays.homeip.net/blog/
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Weblio辞書
[ 2] 歳時部五月五日
[ 3]歌舞伎座・江戸食文化紀行http://www.kabuki-za.co.jp/syoku/bkindex.html
[ 4]ビコロアート教育 絵画教室 国分寺スタジオのブログ http://ameblo.jp/bicoloart/
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2016.02.07] ORIGINAL