節分の由来
・ 節分は日本固有の暦日で、もともと春夏秋冬に4回あったが、江戸時代ごろから立春の前日だけになった
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節分とは「季節を分ける」。日本固有の雑節の一つで、春夏秋冬の始まり(立春・立夏・立秋・立冬)の前日、すなわち季節の終わりの日のことであった。特に立春の節分は二十四節気の大晦日であり、江戸時代以降は節分といえば立春の前日を指すようになった。
『古事類苑 歳時部』に
節分ハ、古來立春、立夏、立秋、立冬ノ前日ヲ云ヒシガ、
後世ハ專ラ立春ノ前日ノミノ稱トナレリ
ちなみに、雑節とは二十四節気に関連し、農作業などでの季節の移り変わりをより分かりやすくするために考え出された暦日である。
・ 室町時代ごろから宮中行事の大晦日行事(追儺、豆まき、柊鰯など)が民間で節分に行われるようになった
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宮中行事が民間にも広まっていく室町時代には、農業暦(二十四節気)の大晦日にあたる立春の節分に行われるようになった。
1808年『改正月令博物筌』に
按ずるに、節分の夜する儀式、鬼やらひ、はやし豆、ひいらぎ、寶舟、厄拂の事まで、昔は晦日にて有たれども、晦日の夜は、來る年のまふけに事しげきゆへ、中世より右等の事を節分の夜なすとぞ、尚委しきわけは、年中風俗考に出たり、面白き事也、見るべし
江戸後期(1821-42)の類書『古今要覽稿』
節分と追儺とは、後世同じき事のやうに心うれど、むかしは差別あり、追儺は十二月晦日のみにかぎりて、別日は其式行なはれざるなり
追儺
・ 中国では古代から季節の変わり目に「儺」の祭祀が行われた
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中国宮中では「儺」という疫病を駆逐する儀式が季節の変わり目に行われていた。儺は紀元前16~8世紀の殷、周時代 に成立したとされる。旧暦三月の「国儺」、八月の「天子乃儺」、十二月の「大儺」があった。。
前漢の『礼記 ・月令』に
季春之月,命国儺,九門磔攘以華春气。仲秋之月,天子乃儺,以達秋气。季冬之月,命有司大儺旁磔
「季春の月、国に儺を命ず、九門にて磔攘し以って春気を畢しむ」
「仲秋の月、天子乃ち儺して以って秋気を達せしむ」
「季冬の月、有司に命じて大いに儺せしむ。旁にて、磔い、土牛を出して以って、寒気を送る」
ちなみに、季春は春の終わり、季冬は冬の終わりのことである。
・ 中国宮廷の「儺」は漢時代に大晦日の「大儺」が厄追い出し(駆儺)として民間に広まる
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大儺は年の終わりに厄を追い出し、新年を迎える行事として民間に広まった。方相氏が鉞(まさかり)を巫(祈祷師)が葦の穂を、赤頭巾黒衣の子供たちが桃の弓に棘(いばら)の矢を以て鬼を追い出す。
後漢の張衡による『東京賦』に
爾乃卒歳大儺,駆除羣厲。
方相秉鉞,巫覡操?(草冠+列)。
?(人偏+辰)子萬童,丹首玄製。
桃弧棘矢,所發無?(自の下に木)。
飛礫雨散,剛疲必斃。
煌火馳而星流,逐赤疫於四裔。
年の暮れの大儺に、激しいお払い。方相氏が鉞(まさかり)を振り回し、巫は葦の穂を操る。多くの子供たちが赤頭巾黒衣をまとう。桃の弓に棘(いばら)の矢をつがえ、所構わず撃つ。礫(つぶて)が飛び雨のように降り、強い鬼も必ず倒される。松明は馳せて星のように流れ、疫鬼を四隅に追い払う。
曾經的那些風俗習慣日益遠去 六十二、唐・駆儺
・ 大儺の主役、方相氏は中国古代の人間の目には見えない厄を駆逐する祈祷師
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死者の霊としての鬼の存在はシャーマニズムに結びつく。
山東省層山遺跡の殷時代の青銅器にある戈と盾を持って踊っているような人物が方相氏だと考えられている。宮廷から民家までの邪気を払い、葬式を先導したと考えられている。
時代が下ると目が4つあって、頭に角が生えている方相氏は、人間の目には見えない悪鬼を退散させる呪師であった。目が四つあるのは、たえず四方に気を配り悪鬼を見逃さないためである。
『周禮』.卷三十一〈司馬政官之職〉
方相氏掌蒙熊皮,黄金四目,玄衣朱裳,執戈揚盾,帥百吏而時儺,以索室毆疫。以索室驅疫,大喪。先柩。及墓。入壙。以戈撃四隅。駆方良。
方相氏は熊の皮をかぶり,黄金の四つの目を持ち,黒衣に朱の裳をつけ,戈を持ち盾を揚げて、百官を率いて、儺の時は室内を探して悪疫を駆逐し、大喪の時は棺に先駆け墓に入り矛を以て四隅を撃ち清めた。
「山東省層山遺跡青銅模様」
「山東省沂南縣北寨村驅儺圖」
・ 「大儺」は日本に伝来し706年に初めて行われ、宮中行事となる
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漢の大儺が日本に伝わったのは大和時代と考えられる。最初に大儺が行われたのは文武天皇の慶雲三年(706年)とされる。
『続日本紀』に
「是年、 天下諸国疫疾、百姓多死。始作土牛大儺 。
(是の年(706年)、天下 の諸国に疫疾が流行り、百姓多く死ぬ。始めて土牛を作って大儺を行う。
その後宮中行事として大晦日に執り行われた。
821年に上奏された『内裏式』に宮廷における大儺の様子が記述されているが中国の行事を踏襲しているのが分かる
十二月大儺式
晦日夜、[略] 中務省率侍從内舍人大舍人等 各持桃弓葦矢、
陰陽寮陰陽師率齋郞 執祭具、
方相一人、著假面黄金四目玄衣朱裳、右執戈、左執楯、
?(人偏+辰)子二十人 同著紺布衣朱抹額、共入殿庭列立、
陰陽師率齋郞奠祭、陰陽師跪讀呪文、
訖方相先作儺聲、即以戈撃楯、如此三遍、
群臣相承和呼、以逐惡鬼
・ 大儺は宮中御所から貴族の家に広まり「追儺」に改称、「おにやらい」「なやらい」とも呼ばれた
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967年の『延喜式』から、「追儺」の名称が使用され行事の手配などが記されている。特筆すべきは鬼の役が無いことである。追儺によって追い出すのは御殿や家々に棲む目に見えない悪鬼や邪気であった。
『延喜式』にはいくつか記述があるが例えば「十三 大舍人」に
凡年終追儺前一日、[略]、
官人率追儺舍人等候承明門外、待省處分頒配四門、〈東宣陽門、南承明門、西陰明門、北玄暉門、〉[略]、
陰陽寮儺祭畢、親王以下執桃弓葦矢桃杖儺出宮城四門、〈東陽明門、南朱雀門、西殷富門、北達智門、〉
其方相假面一頭、〈黄金四目〉後被赤兩面四尺、〈若有損壞者、内匠寮修理、〉
緋皂袷袍各一領、緋皂單裳各一腰、〈料皂緋帛、各一疋、〉?(人偏+辰)子八人、紺布衣八領、〈料紺調布四端〉楯一枚、〈長五尺、廣一尺五寸、〉桙一枚、〈長九尺〉緋幡一流、〈料帛二尺〉並納寮庫、當時出用、〈?(人偏+辰)子裝束受主殿寮、事畢返納、〉[略]、
其弓箭杖受陰陽寮、
追儺は「鬼やらい」「儺遣らい(なやらい)」とも呼ばれた。
『源氏物語』「紅葉賀」に
なやらふとて、いぬきがこれをこぼち侍にければ、つくろひはべるぞ
鬼払いといって、犬君(いぬき)がこれ(人形)を壊されたので、直しているのです
源氏物語の注釈書『河海抄』に
なやらふとて 追儺〈十二月晦日〉除夜に儺を追ふ事なり、鬼やらひといふ、追の字をやらふとよむなり、又儺の一字をも鬼やらひとよむ也、始自禁中 迄何家行之
追儺圖『政事要略』
・ 方相氏が疫鬼を追い払う平安初期の追儺はいくつかの寺社に引き継がれている
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現在でも、興福寺などのお寺の追儺会や平安神宮などの神社の追儺式が催される。ただし、大晦日ではなく節分に、また、人の形をした鬼が現れ追い払われる。
吉田神社のホームページより引用すると
平安朝の初期より毎年宮中にて執行されていたものを、古式に則って厳修に伝承・継承されており、古の趣を現在に伝える数少ない神事の一つといえます。
その儀式は、大舎人が黄金四つ目の仮面を被り、玄衣朱裳を着装し、盾矛をとりて方相氏となり、・子(しんし※人偏に辰)という小童を多数従え、陰陽師が祭文を奏し終えれば方相氏大声を発し盾を打つこと3度、群臣呼応して舞殿を巡ります。最後に上卿以下殿上人が桃弓で葦矢を放ち、疫鬼を追い払います。
「吉田神社追儺」(1928年)都年中行事画帖
「吉田神社節分祭」
京都桜写真館「春花京子」http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/event/sb-yoshida.htm
鬼
・ 古代中国では鬼は霊魂であったが、後漢以降忌みなるものに変化した
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古代のもっとも一般的な鬼神は、霊魂である。人間は陽気の霊で精神をつかさどる魂と,陰気の霊で肉体をつかさどる魄(はく)との二つの神霊をもつが,死後,魂は天上に昇って神となり,魄は地上にとどまって鬼となると考えられた。鬼は神とともに超自然的な力を有し,生者に禍福をもたらす霊的な存在であるが,特に天寿を全うすることができずに横死した人間の鬼は,強い霊力を有し,生者に憑依(ひようい)し祟(たたり)をなす悪鬼となるとして恐れられた。鬼は多くの人が見ていた。
『礼記』祭法篇に
衆生必死,死必歸土,此之謂鬼
衆生必ず死す、死すれば必ず土に歸る、此を之れ鬼と謂ふ。
この民衆の畏怖は王にとって重要だと考えれていた。
『論語』先進篇
季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼。
季路が鬼神に仕える方法を問うと、いまだ人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕える事ができようかと老師は申された。
『論語』先進篇
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣
樊遅が知を問うと、民に義を務めさせ、鬼神を敬して遠ざける、これを知と謂うべしと老師は申された。
しかし、墨子はもっと鬼神の存在と能力を信じるべきだと説く。
『墨子』・明鬼篇
天下乱、何以然也、則皆以疑惑鬼神之有與之別、不明乎鬼神之能賞賢而罰暴也、今若使天下之人、偕若信鬼神之能賞賢而罰暴也、夫天下豈乱哉。
後漢に入り、「五斗米道」などが結成されたり、民間信仰の鬼神は為政者にとって都合悪くなり否定される。
王允『論衡』卷二十二訂鬼篇第六十五
「一曰鬼者人所得見病之気也」、「一曰鬼者老物精也」、「一曰鬼者本生於人時不成人」、「一曰鬼者甲乙之神也」、「一曰鬼者物也」、「一曰人且吉凶妖吉祥先見」。「皆存想虚、致未必有其実也、倶用精神畏懼也。」
これ以降鬼はネガティブな意味を持ってくる。同じ頃の日本でも『魏志倭人伝』に
名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。
とあり鬼道がおこなわれていた。
・ 日本では人知を超えた現象を起こす者として目に見えない「おに」が使われた
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人に災いをもたらすものとして、目に見えない「おん」が訛った「おに」が信じられていた。源順「倭名類聚鈔」(937年頃)
鬼和名於爾 或説云、隠字音於爾訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗曰隠也
鬼は和名「おに」、あるいは隠(おん)が「おに」訛ったとされる。鬼は物に隠れて顕はることを欲せざる、故、俗にいわく隠なり
「おに」は祖霊、地霊であり、見えないため畏怖の対象であった。また、人知を超えた災害や自然現象は「おに」によるものと考えられていた。
・ 日本に伝来した漢字「鬼」は当初は「もの」「かみ」などと訓じられた
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「もの」「もののけ」は同じ由来で、死霊のことである。『源氏物語』に夕顔で「もの」、若菜下の巻でなど多くの間で「もののけ」が出現するがそれは、六条御息所の死霊だったり、秋好中宮の母御息所の死霊だったりする。
折口信夫は『国文学』で
極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である。
『出雲国風土記』に最初に鬼の字が見られる。
昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつくる)る人の男を食ひき
この様子を父母が見ていたという記述が続く。つまり、見える「鬼」であった。
・ 平安末期に「鬼」は「おに」と訓じられるようになった
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平安末期になると治安が悪化し山賊や追剥が横行した。頼光四天王の渡辺綱の大江山の酒呑童子退治や京都一条戻橋の逸話は武勇伝として広まり、鬼の概念も固定化されていく。一方、疫病が最も恐れられた厄であった。安倍晴明ら陰陽師はこの疫病を起こす鬼が見えそれを退治するとされ、ここにおいて目に見えない「おに」の疫病が「鬼」と視覚化されていく。このことが「鬼」と「おに」の混同が起こり「おに」の和訓となったと考えられる。平安時代後期の『今昔物語』の巻27に具体的な鬼の姿が記述されていてそれ以前はそういう記述が少ないことからも推測される。
渡辺綱と茨鬼童子歌川国芳・画
疫病神退治をする安倍晴明泣不動縁起より
・ 平安末期になると、追い出す見えない「厄疫」が「鬼」に視覚化され、方相は、鬼を払う英雄から追い払われる鬼の役割に替わった
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日本の研究者の広田律子は、「仏教で盛んだった修正会に追儺の儀式が取り入れられた際、恐るべき風貌の方相氏が仏事において追い払われる邪鬼のイメージと同一視されるようになったため」と分析している[出典不明]。
室町時代に一条兼良により記された『公事根源』に
追儺といふは、年中の疫氣をはらふ心也、鬼といふは、方相氏の事也、四目ありて、おそろしげなる面をきて、手にたてほこをもつ
『今昔百鬼拾遺』「方相氏」
・ 鬼が牛の角、虎の牙と爪を持ち、毛皮を着ているのは、日本固有で、鬼門(うしとら)に由来する
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陰陽道では、北と西が陰、南と東が陽でその境界の北東(艮)と南西(坤)は不安定な方角とされ、「鬼門」「風門」と呼ばれた。鬼が死霊から邪悪な恐ろしいものに変化した日本では鬼門は忌む方向とされ、例えば京都の鬼門の方向に比叡山延暦寺が建立された。一方、中国の暦や方位などに使われていた十干十二支が伝来する。十二支には十二生肖という動物が配されていた。日本では、十二支の漢字に動物の名前を訓ずることで庶民が覚え易くした。そして、陰陽の「艮」「巽」「坤」「乾」の十二支が示さない方角に対し「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬい」とその方角を挟む十二支の方角を示す動物を並べた。これは日本固有のものである。鬼門は「うしとら」の方角となり牛と虎のアイテムが鬼の姿に使われるようになった。
方位方角三島暦http://www.geocities.jp/mishimagoyomi/houi/houi.htm
豆まき
・ 中国の漢時代には大儺で疫厄を倒すため小豆や五穀を播いた
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古代は礫で疫厄を倒す(追儺の項参照「飛礫雨散,剛疲必斃」)とあったが、漢時代には小豆(赤丸)や五穀を蒔いたとの記述がある。また、小豆の赤には魔除けの意味がある。
432年『後漢書』巻九十五
漢蕉儀曰“方相師百隸及童子,以桃弧棘矢土鼓,鼓且射之,以赤丸五穀播灑之
『改正月令博物筌』
唐土にも今夜赤丸と五穀をまく事、後漢書の註に出たり、赤丸とは、あづきの事也
・ 大豆は五穀の一つ
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五穀は時代で変わる。古代中国では麻・黍・稷・麦・豆(『周礼』)稲・黍・稷・麦・菽(『孟子』)。なお、菽は大豆とも豆類の総称。
古代日本では稲・麦・粟・大豆・小豆(『古事記』)稲・麦・粟・稗・豆(『日本書紀』)
・ 日本では大儺の行事で豆まきが行われた
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豆まきがいつから行われていたかは明確な史料はないが大儺の行事の代わりに豆まきが行われるようになったといわれる。。
『世諺問答』
問て云、せつぶんのまめうつ事は、何のゆへにてかはべる、 答、としこしと世俗にいひならはして、こよひは惡鬼の夜行するゆへに、禁中にも、むかしは陰陽寮さいもんをよみて、上卿已下これををふ、御所にともし火をおほくともして、四目ありておそろしげなる面をきて、手にたてほこをもて、内裏の四門をまはるなり、また殿上人ども御殿のかたに立て、桃の弓蓬の矢にていはらふ也、これらをかたどりて、まめうちて鬼をはらふ事はじまれるにや、此内裏にて鬼をはらはれし事は、慶雲二年十二月、百姓おほく疫癘になやまされしゆへに、はじめられたるよし承およびし
・ 大豆をまく様になったのは、宇多天皇に由来されるとされるが定かではない
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『古今要覽稿』
節分、正誤、 按に、節分の夜大豆打事、宇多天皇より始れりといふ事は信用しがたし
『あい(土偏に蓋)嚢抄』
節分ノ夜大豆ヲ打事ハ何ノ因縁ゾ、是更ニ慥ナル本説ヲ不レ見、由來ヲ云人ナシ、但シ或古記ノ中ニ云、節分ノ夜大豆ヲ打事ハ、宇多天皇ヨリ始レリ、鞍馬ノ奧僧正谷、美曾路池ノ端ノ方丈ノ穴ニ住ケル藍婆惣主ト云二頭ノ鬼神、共ニ出テ都へ亂レ入ントシケルヲ、毘沙門ノ御示現ニ依テ、彼寺ノ別當奏シ申子細アリ、主上聞召スニ、明法道ニ宣旨アリテ、七人博士ヲ集テ、七々四十九家ノ物ヲ取テ、方丈ノ穴ヲ封ジ塞デ、三斛三斗ノ大豆ヲ熬テ鬼ノ目ヲ打ハ、十六ノ眼ヲ打盲テ、抱ヘテ歸ルベシ
・ 室町時代には行われ江戸時代には現在に伝わる豆まきとなった
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少なくとも室町時代には鬼は外福は内と唱えながら豆まきが行われていた。
1442年の『臥雲日件録』
因唱鬼ハ外福内四字
江戸時代になると豆まきの記述が増え広く行われていた。また、歌舞伎役者が寺社で豆をまくのも盛んにおこなわれた。
『改正月令博物筌』
爆レ豆、撒レ豆、福は内、鬼は外、禁中にも熬豆を撒して、疫鬼をはらはせらるヽ事、宇多天皇のときより始る、民家にも豆をうちて、福は内、鬼は外と囃すなり、豆をうつものは、來る年の支に當る者つとむ、是を年男といふ、又豆を打事は、魔目を打といふ義也
『半日閑話』
節分の夜、白大豆を黒く成程煎り、弦懸升に入れ、夫を箕に入て持參し、福は内三聲、鬼は外と一聲三度づヽまく、公方様御年の數に一粒増し、大豆を三方に載せ差上る、則御祝被遊
二月『臥雲日件録』
七代目市川団十郎の豆まき豊国『初代豊国錦絵帖』
・ 年の数だけ豆を食する由来は厄払い
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『古事記』の時代から自分の衣服などに厄を移し捨てるということが行われてきた。後水尾院が厄払いとして年の数の豆を銭などと捨てたことが由来とされている
『後水尾院當時年中行事』
勾當御やく拂〈まめ御としの數、鳥目御としの數、引合一かさねにおしつヽむなり、〉もて參る
柊鰯
・ 最古は土佐日記に記述がある、ただし、元旦の行事であり、鰡(ボラ)である
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柊鰯の最古の記述とされるのが
『土佐日記』元日の條に
こへのかどのしりくべなはのなよしのかしらひひらぎらいかにぞとぞいひあへなる
小家(こへ)の門(かど)のしりくめ繩の鯔(なよし)の頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ
しりくめ繩とは天照大神が天の岩戸から出た時に、また中に入れないようにした縄のことで注連縄(しめ縄)の起源、なよしとは出世魚の「ボラ」の若い頃、「鰡」魚へんに留める。
・ 柊鰡は日本書紀に由来する元日の賀儀のひとつであった
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『比古婆衣』にその由来が記述されている。
口女の喉の鈎のために、痛み疼きたる古事によりて、元日にかの魚の頭と杠谷樹を宮門に插れたりしなるべし(杠谷樹は柊の漢名)。
この古事とは海彦山彦や浦島太郎の話のもととなった『日本書紀』第十段の一書(基となった資料)の記述を指す。兄、火闌降命(海彦)と弟、彦火火出見尊(山彦)はある日猟具を交換し、山彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く。海神は魚を集めて尋ねた。
海神召赤女口女問之時、口女自口出鈎以奉焉、赤女即赤鯛魚也、口女即鯔魚也
口女有口疾即急召、至探其口所失之鈎立得
口が疼いていた口女(鰡)の口から釣り針が出てくる。釣り針を探して山彦は竜宮に来てたのだが海神の娘の豊玉姫を娶り、三年海の宮に住む。山彦は海彦のもとに帰り釣り針を返して許される。
この古事から良いことを招き留めるという願掛けに「疼く(柊)口女(鰡)」を元旦にしめ縄に挿したとされる。鰡が魚偏に留めると書くのもそういう由来である。また、柊は「ヒリヒリと痛む」旨を表す古語動詞「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」が変形したものである。柊は木偏に疼の冬を配したものである。
・ 伊勢地方の正月飾りの注連縄には柊が挿してある
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伊勢神宮しめ縄山田聡子主催 セミナー・プランニング 凜>Blog http://yamadasatoko.info/jewelry-box/20131118083319/
・ 室町時代以降に節分の柊鰯の記述がみられる
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室町以降柊鰯の記述がみられる
『日次紀事』
同夜〈◯節分〉家々門戸窓?(木偏に霊)插一鰯魚首并枸骨條一、傳言、此二物疫鬼之所レ畏也
『歳時故實大概』
節分〈立春の節の前日なり〉今宵門戸に鰯のかしらと柊の枝を插て、邪氣を防ぐの表事とし
ひらぎいわしhttp://www.h4.dion.ne.jp/~ishii/00.htm
・ 元日の賀儀、「柊鰡」は大晦日の追儺が節分に移ったときに鬼を儺する節分の「柊鰯」になった
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『比古婆衣』に
春の節分の前夜儺すとて、鰯とひヽらぎの枝を葉ごめに門戸に插すも、上に論(イ)へるごとく、元日の賀儀の儲を、大晦にものせることの、春の節分に儺ふ事となれるにつれて、混(ヒトツ)にうつり來しものなるべし
柊の棘が魔除けの効果へ変化したのは想像できる。焼いた鰯の頭がどうして鬼が嫌いなのかがまだ不明である。[調査続行項目]
室町時代中期の『あい(土偏に蓋)嚢抄』
鬼、人ヲ喰ハントスルヲバ、◯(魚偏に卑)(塵添あい(土偏に蓋)嚢抄作イハシ)ヲ炙串ト名付テ、家家ノ門ニ指ベシ、然ラバ鬼ハ人ヲ不可取ト云、御示現也ト
恵方巻
・ 「恵方」とは陰陽道でその年に歳徳神が在する方向、節分では明日(立春)以降神が在する方向をいう
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歳徳神(としとくじん、とんどさん)は、陰陽道で、その年の福徳を司る神である。歳徳神の在する方位を恵方と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。本命星と恵方が同一になった場合は特に大吉となる。しかし、金神などの凶神が一緒にいる場合は凶方位になる。
陰陽道では年は十干と十二支の組合わせで表されるがその十干によってその年の歳徳神の在する方向が決まる。今年は丙申なので丙の方向となる。
丙の方向は「南南東やや南」となる。
恵方の方位Wikipedia
・ 「恵方を向いて巻すしの丸かじり」は花柳界から昭和7年に始まった大阪すし業界の「幸運巻寿司」として宣伝、関西に広まっていった
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昭和7年に大阪鮓商組合が「巻寿司と福の神 節分の日に丸かぶり」と題したチラシを配布した。そこには「この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。」「これは節分の日に限るもので恵方に向いて無言で壱本の巻寿司を丸かぶりすれば其の年は幸運に恵まれるという事であります」「昭和七年節分二月四日 恵方 西北 (戌子ノ間)」「幸運巻寿司 一本 金拾五銭」「大阪鮓商組合」「お得意様」とあります。年間で最低となる2月の売上向上を意図したものとされる
比較のため値段情報のある大船軒のHPによれば現在1,000円の鯵の押し寿司は当時弐拾五戦、比例するとすれば今600円、コンビニの400円程度より高いですがすし屋の値段としては妥当だと思われる。
昭和十五年の同じチラシには花柳界の由来はなく「昔からの習わし」と変化している。花柳界では遊女が節分の家族サービスのため帰った旦那に早く戻るようにという事で行われたというのが真実のようだ。また、値段も二十銭となっている(鯵の押し寿司は戦時中の食糧統制の為一時販売中止)。
本福寿司の幸運巻き寿司チラシ昭和7年(1932)大阪の鮓 http://www.osaka-sushi.net/sushi/sushi3.html
幸運巻き寿司チラシ昭和15年(1940)大阪歴史博物館所蔵
・ 戦争で下火となるが1977年に海苔業界が「幸運巻ずし」宣伝開始
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1977年に海苔業界による「幸運巻ずし」宣伝開始、街頭イベント「海苔祭り」が大阪・道頓堀で開催、注目される
・ 1989年(昭和64年)に広島のセブンイレブンが恵方巻きの販売開始、全国に広まっていく
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1995年には関西以西 1998年には全国エリアで販売
コンビニの恵方巻セブンイレブン、2016年
そのほか
・ 平安時代に節分に1年以上留まる方位神の方違えを行った
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方違え(かたたがえ、かたちがえ)は、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつ。方忌み(かたいみ)とも言う。目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けた。
方違えの対象となる方位神は、以下の5つ。
一、天一神:同じ方角に5日留まる
一、太白:毎日方角が変わる
一、大将軍:3年間同じ方角に留まるが、5日単位で遊行する
一、金神(こんじん):1年間同じ方角に留まる
一、王相:王も相も1か月半同じ方角に留まる。続けて来るので3か月間ひとつの方角が塞がることになる。
同じ方角に1年間在する金神などがの場合には、その年の節分に方違えすれば当分は方違えしなくても良いとされた。この節分の日に行う方違へを節分違へという。
『枕草子』節分違など
「せちぶんたがへなどして夜深く帰る、寒きこといとわりなく」
・ 医薬の神を祀る五条天神の節分神事で餅・白朮を配る。
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節分に、京都五条天神に参詣することを五条天神参という。医道の神であり、疫病除けとして信仰されている。神功皇后が朝鮮征伐の時、「まさもち(勝餅)」を作らせ、勝利をおさめた縁起から、この日参詣者に「勝餅」、「白朮(オケラ)」を配る。上野五条天神では「うけら(オケラに同じ)」を焚き、それで焼いた餅を「うけら餅」と称して配る。
『東都歳事記』
節分〈立春の前日也〉 下谷五條天神宮神事〈酉の刻追儺あり、白朮餅を出す、これを服して邪氣を避るといふ、少彦名命の祭事なり、〉
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
来歴
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