お盆の起源
・ 日本古来の先祖崇拝・祖先祭祀が起源
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日本古来から、年に2回死者の霊を祀る風習があった。冬と夏の最も寒暖が厳しい時候の満月(一月と七月十五日)に、先祖を崇拝・祭祀する魂(たま)祭り・みたま祭りが起源。
お盆の迎え方・行事は地方によって異なり、四国、九州・沖縄、東北と都から離れるほど仏教色が薄れるのは土着の魂祭り起源であることを示している。ちなみに冬の祭祀は初詣、七草粥などに引き継がれている。また、六月の夏越(なごし)の祓と十二月の大祓は年越の祓で半年間の穢れを祓うのも一連の行事の一環である。
お盆という言葉の由来は「ぼに」が有力である。供養の布施物を乗せる器あるいは乗せた物全体を「ぼに」と呼んだ。
今でも地方に行くと、徳島県指定無形民俗文化財「津田の盆踊り」のように「盆(ぼに)踊り」という名称が残っている。仏教の盂蘭盆と習合し、「ぼに」がなまって「ぼん」「おぼん」が一般的に使われるようになった。
『蜻蛉日記』上巻応和二年(962年)に「ぼに」の記述がある。
「十五、六日になりぬれば、ぼになどするほどになりにけり」
仏教の盂蘭盆会はその基となったお経から先祖や故人の供養ではなく、故人を救うために多くの精霊を供養するものであった。
日本で盂蘭盆会と先祖や故人の供養と結びついたのは寺請・檀家制度ができた江戸時代と考えられる。
すでにあった先祖供養の御霊祭りと融合したため地方色豊かな行事となった。
そして、迎え火や送り火は松明を焚き引き回す原始的なものから、灯篭や提灯、苧殻を各家庭で燃やす縮小化が都市から広がっていった。
盆踊りは念仏踊りの親しみやすさからもっと早く戦国時代ごろから融合した。
このためお盆は日本固有の年中行事である。
盂蘭盆
・ もともと仏教には先祖崇拝や供養はなかった
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お釈迦様の説かれたのは「輪廻転生」であり、そのためインド仏教では一般的にお墓は無い。このため先祖を崇拝したり、供養したりということはもともと無かった。
しかし、伝来した中国では道教や儒教といった祖先を大事にする宗教が深く根ざしていたため仏教も習合し、「偽経」といわれる経典も作られた。
そして、日本に伝来した中国仏教は日本古来の先祖崇拝と習合しやすく広まった。
お盆も習合したものの一つ。
・ 旧暦七月は古来中国から「鬼月」
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中国古来から七月は「鬼月」であり祖先の霊が解き放たれる月であった。六月の末日に鬼門が開き、七月の末に閉じる。
七月一日、二日、十五日、末日に祭祀を行っていた。
古代中国では鬼とは亡くなった人の霊である。周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである『礼記(らいき)』に記述がある。
衆生必死,死必帰土,此謂之鬼
ちなみに、仏教が伝来し、古来の鬼と習合し餓鬼道となる。偽経の『正法念処経』に36の餓鬼が記述されている。日本にはこの餓鬼が鬼の概念として伝わった。
また、上記鬼門は風水の鬼門とは異なり現生と来世の境目である。風水の鬼門は日本固有のものである。
・ 旧暦七月十五日は古代中国では道教の「中元節」
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中国の土着宗教、道教に、旧暦一月十五日の「上元節」、七月十五日の「中元節」、十月十五日の「下元節」と行われる三元といわれる年中行事があった。
中元節は地官大帝(赦罪大帝)の誕生日であり、人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝う風習があった。
のちには、死者の罪を赦すことを願う日となった。
・ 旧暦七月十五日は仏教では「安居」が明けた日「解夏」
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「安居(あんご)」は「夏安居」「雨安居」とも言われ、夏の雨季に遊行を止めて一か所に集まって集団で修行を行うこと。旧暦四月十五日から3ヶ月間。安吾の明けた日である七月十五日は「解夏(げげ)」という。
・ 中国では道教、儒教、仏教が習合し「盂蘭盆会」となった
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中国に仏教が伝来し、道教や儒教と習合し祖霊を供養する「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を催すようになった。もともと仏教には祖霊供養の習慣はなく、「盂蘭盆会」は中国で中元節に習合したものである。
仏教の修行を終えた僧侶に施し行っていた「解夏」、
仏教の餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養する「施餓鬼」、
儒教の「孝」と
道教の「中元節」が習合した。
中国では目連伝説が広まり、「盂蘭盆経」が作られた。
盂蘭盆はサンスクリット語の倒懸(さかさにかかる)という意味の「ウランバナ」が由来で、餓鬼道における倒懸 の苦しみ指す。
「盂蘭盆会」は供物などを僧侶に奉じ、父母や先祖を餓鬼道の苦しみから救う行事である。つまり、盂蘭盆会で供養するのは餓えた精霊たちである。
最初に「盂蘭盆斎」を催したのは梁の武帝(在位 502~549年)だといわれる。
「盂蘭盆会」に関して梁(502年 - 557年)の宗懍撰の『荊楚歳時記』に記述がある。
七月十五日、僧尼道俗、悉營盆供諸仙。
按盂蘭盆經云、…佛勅衆僧、皆爲施主、呪願七代父母、行禪定意、然後受食。
是時、目連母、得脱一切餓鬼之苦。
目連白佛、未來世佛弟子、行孝順者、亦應奉盂蘭盆供養。
佛言、大善。故後人因此、廣爲華飾。
乃至刻木割竹、飴?剪綵、模花葉之形、極工妙之巧。
七月十五日、僧尼道俗は、尽く盆を営み諸仙を供す。
盂蘭盆経を按ずるに云う、…仏は衆僧に勅し、皆な施主の為に、
七代の父母を呪願し、禅定意を行ぜしめ、然る後に食を受けしむ。
是の時、目連の母、一切の餓鬼の苦を脱するを得たり。
目連の佛に白すに、未来世の仏弟子にして、孝順を行う者も、亦た応に盂蘭盆を奉じて供養すべし、と。
仏の言うに、大いに善し、と。
故に後人は此に因り、広く華飾を為る。
乃ち木を刻み竹を割り、蝋を飴にして綵を剪り、花葉の形を模し、工妙の巧を極めるに至る。
・ 盂蘭盆会は飛鳥時代に日本に伝来
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仏教ととも 中国から伝来したた。推古天皇が606年に設けた斎が盂蘭盆会のはじまりとされる。
(ちなみに灌仏会四月八日は灌仏会、仏様の誕生日である)
『日本書紀』推古天皇十四年(606年)四月壬辰(十五日)条
自是年初毎寺、四月八日、七月十五日設斎
盂蘭盆会と盂蘭盆経は日本書紀の斉明天皇の条に記述されている。
『日本書紀』斉明天皇三年(657年)七月辛丑(十五日)条
作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人
須彌山の像を飛鳥寺の西に作る。且つ、孟欄盆曾を設く。
暮に、覩貨邏人(とからじん)を饗応する。
『日本書紀』斉明天皇五年(659年)七月庚寅(十五日)条
詔群臣、於京内諸寺、勸講盂蘭盆經使報七世父母
京内諸寺で「盂蘭盆経」を講じ七世の父母を報謝させた
・ 盂蘭盆会は平安末期には貴族・官人・武士に広まった
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平安後期の中・下級貴族,在庁官人の生活を具体的に伝える『東山往來書状集』に記述がある。
右盂蘭盆供事、以夕部爲其時、何者盆供、爲勞安居衆疲極也、
件黨一夏九旬事訖、擬散去之剋、以此十五日(日へんに甫、申の刻)時、
集會塔前佛前、行自恣法、當於此時供中養百味、
於是衆僧受之呪願、令彼施主七世父母、現在父母離業得道由、
此善根施主世々得長命色力云々、?時即申時也、又諸經於説鬼神
・ 盂蘭盆会は江戸時代に寺請・檀家制度で民間に広まった
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江戸幕府はキリスト教を禁ずるとともに、寛文五年(1665年)に宗教を統制するため、檀徒として属する寺院名を加えた宗門人別改帳(一種の戸籍)の作成を命ずる。
さらに、寺院は檀家に対して自己の檀家であることを証明するために寺請証文を発行する寺請制度が確立された。
人々は檀家として寄進やお布施で寺の経済的支援を行う。このころから僧侶が家庭を訪問する法事・法要を行うようになり仏教祭祀や行事が浸透していく。
特に葬儀や先祖供養を中心になり、お墓も菩提寺に作るようになる。お盆はその中でもお彼岸などとともに重要な行事とされた。現在のお盆行事はこの頃に確立された。
お盆行事
・ お盆の日にち
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もともとは旧暦七月十五日。明治6年(1873年)グレゴリオ暦(新暦)採用の後、主に3つの日にちが使われている。
1.旧暦七月十五日:旧盆ともいう。沖縄や奄美地方。
2.新暦七月十五日:首都に近い関東地方の少数地域
3.新暦八月十五日:月遅れの盆ともいう。ほぼ全国的
旧暦で行うと新暦での日付が変動する。藪入りに基づく盆休み・帰省には日にちが固定していたほうが社会的に便利である。
また、新暦七月十五日は梅雨の時期でもあり、農家が忙しい時期で盆の行事どころではない。
このような理由で八月十五日を採用する地域が増えていった。
現在は盆休みは八月十五日が全国的になっているが、盆踊りや先祖供養などは地域ごとに異なる日に決めているところもある。
・ お盆行事は一般的に旧暦七月十三日から十六日
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少なくとも江戸時代以降、一般的にお盆は以下のように行われていた。現在はこれに準じて行われる。
七月十三日:迎え盆
ご位牌を仏壇から精霊棚に移す、お供え物を整える
お墓参り
迎え火、盆提灯
七月十四、十五日:お盆供養
法事・法要
棚経
七月十六日:送り盆
送り火、精霊流し、灯篭流し
天保九年(1838年)刊行の『東都歳事記』に記述がある。
十三日 精靈祭
今日より十六日にいたる迄、人家聖靈棚を儲け、件々の供物をさヽげ、先祖をまつる、
この間、僧を請じて誦經するを、棚經といふ、
十三日の夜、迎火とて麻柯(アサガラ)を燎く、十六日朝送火とて、又麻がらをたく、
この内を俗盆中といふ、諸人先祖の墳墓に詣づ、盆の中、托鉢の僧多く來る
・ 「盆提灯」
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盆提灯はお供え物であり、先祖や故人の霊が迷わず帰ってくる目印である。一般に精霊棚(あるいは仏壇)の前に正式には対にして飾る。数には制限はない。また、新盆では白提灯が家の玄関等に吊るされる。
盆提灯は仏教の宗派に差はなく地方により特徴がある。
盆提灯(原孝洲提灯)
引用:http://bon.hara-koushu.com/
・ 「迎え火」
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先祖や故人の霊を迎え入れるために七月十三日に焚く野火を「迎え火」という。霊が帰ってくるときの目印の意味もある。
古来は村落などで行われ、御招霊(おしょうれい、おしょうらい)として残っている。村落の青年男子が大きな松明(たいまつ)を持ち、大きく振り回して練り歩くものである。
盂蘭盆会が民衆に広まると家の門口・玄関先などに松の枝や皮を剥いだ麻の茎(麻柯、オガラ)を折って積み重ね、火をつけるのが一般的となった。
江戸時代末期の『改正月令博物筌』文化五年(1808年)に
十三日 魂迎
迎火、今夕方に、亡人の聖靈をむかふるとて、麻柯ををりて火に燒く、
是を迎火と云也、佛家に説多し、世間に、松を門火に焚き、
樒の枝にて、清水をそヽぐ事あり、
思ふに火の陽光を以て、天の陽の魂を降し、水の陰精にて、
地の陰氣魄を呼びのぼして、亡者の魂魄をむかふるなるべし、
蓋漢土の鬼神をまつる式をまなひたるものならんかし
迎え火、御招霊(とやま観光ナビ):http://www.info-toyama.com/s/spot/30010/
迎え火(阿朱さんのブログ):http://blogs.yahoo.co.jp/amon0807chi/11049701.html
・ 「送り火」
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送り火は七月十五日にお盆に帰ってきた先祖や故人の魂をあの世へと送り出す火を焚く行事である。
松明を引き回す原始信仰的なものから、京都や江戸などの都市から灯籠、苧殻焚きと縮小していった。
一方、室町時代には灯籠の大型化や多数並べる大燈呂や万燈会が盛んとなり、京都において山に火で文字や図柄を描く送り火と発展した。
京都の山の送り火は古くからの由来は伝わっているが起源は明確ではない。一般に、足利義政の頃に始まったと考えられている。明治の初めには十山の送り火があったが現在は「大文字」「妙法」「舟形」「左大文字」「鳥居形」の五山となっている。
元治元年年(1864)年に刊行された『花洛名所圖會』に
〈四、東山〉大文字噺〈熊谷直恭、通稱久右衞門、〉云、毎年七月十六日の黄昏に、洛東淨土寺村如意嶽の山上に、
燈すなる大文字は、弘法大[774-835年]の作り給ふと云傳へたり、[中略]
想ふに、七月十六日夜は、亡靈の送り火とて、諸國に爐火を奠す、[中略]
此夜また北山に船形を焚火は、則異船燒打の表示にして、蒙古異賊を調伏の護摩爐たる事跡ならん、[中略]
因みに云、同じ夕べ松ケ崎の山に灯火する妙法の二字、此は日像上人[1269-1342年]、[中略]
大文字を倣ひて、作り給ふこと必せり、
さるを大文字は、足利將軍家の時に始れりといふ説は、金閣寺山なる、左大字の事なり、
米原市 清滝 お松明送り火(徒然なるままにぼやいて):http://blogs.yahoo.co.jp/gokuyjp/37392439.html
「大文字」
「妙法」
「舟形」
「左大文字」
「鳥居形」
五山迎え火(京都観光協会):https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/daimonji.html
・ 「精霊馬」
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十三日のお迎えと十六日のお送りのとき、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれる胡瓜の馬や茄子の牛を祭る。四本の麻幹などを差し込み、馬、牛として仏壇まわりや精霊棚に供物とともに配する。胡瓜は足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるように、また、茄子は歩みの遅い牛に見立てられ、この世からあの世に帰るのが少しでも遅くなるように、また、供物を乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いがそれぞれ込められているという。
藤森大雅の『春雨樓詩鈔』(嘉永七年、1854年)巻九 江門節物に
七月自十三至十五、家家祭其先、必有茄牛瓜馬、用茄瓜、截芝麻加四足者、
野情轉不在馳驅、靈仗排來猶要扶、遮莫呼牛又呼馬、祭餘其奈比芻狗、
精霊馬(Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
・ 「盆踊り」
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七月十三日~十六日(新暦では八月十三日~十六日)に村落などの地域社会で先祖を迎え、夜を徹して踊る風習。
元来盆踊りは、帰って来た先祖や故人の霊を慰め、送るための自然信仰の儀式からきている。
一方、平安時代に盂蘭盆会に踊り念仏が取り入れられ、鎌倉時代に念仏踊りとして全国の寺に広まった。盂蘭盆会踊りともいう。
戦国時代には戦いの死者の鎮魂に念仏踊りを城下町で催し、民衆にも広まった。このころから江戸時代にかけて仏教色を薄め、地方色豊かな盆踊りが確立していく。風流踊りともいう。
また、従来は七月十五日の風習だったが室町時代には四日間開催されたりと民衆の楽しみとなって日にちも長期化する。
室町時代の『春日權神主師淳記』に
明應六年[1497年]七月十五日、南都中近年盆ノヲドリ、異類異形一興當年又奔走云々、
不空院辻ニ躍堂自昨日初建之、毎年盆ノ躍ハ、晝新藥師寺ニテ躍リ、夜不空院ノ辻ニテ躍之處
安土桃山時代の『稻葉家譜』に
〈九〉[天正十五年(1587年)]
典通、七月秀吉入大坂城、典通亦歸于曾根城也、[中略] 而催盂蘭盆踊
近世民間怪談を集めた『義残後覚』に
入江大藏之丞口論の事附力業の事
[文祿元年(1593年)] 角て月日をふるほどに、七月十五日の夜、
藝州御城の馬場におゐて、諸方のさぶらひ、小姓衆、さみせん、
つヾみにて、大おどりをはじむるほどに、
江戸時代前期の『山城四季物語』に
〈四、七月〉十五日十六日の夜、松ケ崎、長谷、岩藏、花苑踊の事、
松ケさきは、本涌寺といふ堂の前にて、法花の題目にふしを付、拍子に合、
老若男女をし交り、孫や子供をかたに懸てもおどるなり、此寺は、日蓮の末
日像の開基として、法花圓純の學室なり、長谷、岩藏、花苑にては、
六字の念佛にふしを付、さまざまの花をかざり、匠をつくしたる、
四角なる灯籠を戴ておどる、いづれも肝にいりたるひとふし、きはめて品ある事、
都にも恥ずおもしろし、此所にては、氏神の前より踊初、
其としみまかりたる亡者有家に行て、夜更までおどりありくなり、かくばかり、
列年にもよほしたる事なれば、由來なきにしもあらじなれど、
たしかに知者なしとかや、又播磨國姫路の、總社といふ宮にては、
十五日の晝灯籠を戴て、男ばかり、太刀刀をぬきかたげ、けはしきさまして踊なり、
是にも由來さだかならずとぞいひける、祭れる神は大己貴命なり、
・ 「精霊流し」「精霊船」
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本来、精霊流しは十六日にお盆の供物を精霊菰で包んで川や海に流す行事。先祖や故人をお供えと一緒に送るのである。精霊菰は精霊棚の真菰などで編んだ敷物のこと。
新盆では眞籠や茅で作った精霊船を流す風習が各地にみられる。
福井県和田にはお精霊舟送り(わだのおしょうらいぶねおくり)がある。茨城県大津では「盆船」という。
また、中国の盂蘭盆行事と同じで故人の済度を祈願して十五日の夜に行うところもある。長崎の精霊流しは有名だが中国の中元の法船の影響だと考えられる。長崎近隣の九州地方にも似た風習が残っている。
ちなみに、中国では盂蘭盆会の行事で中元節(十五日)の晩に亡霊を苦しみや困難から救うために法船という紙の船を作り焼き払う。
江戸時代末期の『長崎聞見録』に
〈一〉長崎盆祭の事
長崎の風俗にて、七月十三日は迎火、十五日は送り火とて、墓前に大きなる雪洞をかけつらね、
夥しく見ゆ、その墓は、皆四方の山々にあり、[中略]扨藁にて船を作り、
生靈を祭りたる種々のものを皆積み、此船にも小きぼんぼりを、多く掛つらねて持行、
大きなる船は、一二間もあり、人拾人貳拾人もかヽる、また貧家の船は小さく、
壹人にて持たるもあり、大波戸といふ海濱にて、火を付て推流す、
其火海面にかヾやきて、流れ行くさま夥しき也、此夜は、みなみな寢る人なく、
曉比まで如レ斯さわぎて、賑々しきなり、
田子の精霊船 引用:伊勢志摩きらり千選 http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=03699.html#
長崎の精霊船 引用:PEUGEOT長崎 http://nagasaki.peugeot-dealer.jp/cgi-bin/WebObjects/111c62c5682.woa/wa/read/pj_1223becf8e4/
中国の法船 引用:百度 http://baike.baidu.com/view/1347661.htm
・ 「灯籠(燈籠)流し」
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送り火の一種で十六日に木や竹の枠に絵を描いた紙を張り付けた灯籠を川や海に流して先祖や故人をお送りする。また、中国の盂蘭盆行事と同じで故人の済度を祈願して十五日に行うところもある。
精霊流し同様お供えを一緒に流す地方もある。
ちなみに、盂蘭盆会行う中国では南宋ごろから,中元節(七月十五日)に放河灯(灯籠流し)が行われた。先祖や個人のあの世での苦しみが少なくなるよう願って蓮の花などを描いた灯篭を川に流す。(放河灯は吉凶を占ったり、凶を忌避するために小舟に乗せた蝋燭に火をつけて川に流すことが起源。)
京都の灯籠流し 引用:調べる納得解決サイト:http://xn--59jtb039wb1kdgumtr4lb.com/2014/07/01/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%8A%E7%9B%86%E3%81%AE%E5%B5%90%E5%B1%B1%E7%81%AF%E7%AF%AD%E6%B5%81%E3%81%972014%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%A8%E6%B7%B7%E9%9B%91%E3%81%AF%EF%BC%9F%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E8%8A%B1/
中国の灯籠流し 引用:百度:http://baike.baidu.com/view/60355.htm
・ 「新盆」「初盆」
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人が亡くなって、四十九日の忌明け後初めて迎えるお盆を新盆または初盆といい、特に手厚く供養する習慣がある。
新盆の迎え方や供養も地方によって異なるようだ。
一般的に新盆の家では、初めて帰ってくる故人の霊が迷わないための目印として、新盆用の白提灯を玄関等に吊るす。
白提灯は一つでよく、盆が終わって燃やしてしまいます。
また、墓参りをして提灯を灯して家まで霊を案内するところもある。
新盆の家の入口に飾られた提灯(本来は白無地)
引用:Wikipedia、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
・ 「藪入り」「地獄の釜の蓋もあく」「閻魔賽日」「十王詣」
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薮入り(やぶいり)とは、小正月とお盆の次の日である一月十六日と七月十六日に、奉公人が主人から休暇をもらって実家に帰ることができた日だった。
正月と盆は各家の重要な祭日であり、先祖を供養する行事のある日だったからである。
本来は嫁が実家へと帰る日だったとされる。江戸時代に都市の商家を中心に広まった。
現代もお正月とお盆休みの帰省にその習慣が残っている。
また、江戸時代に、藪入りの日は地獄の鬼も罪人の呵責(かしゃく)を休む賽日であるとされるようになり、閻魔堂や十王堂に参るようになった。「閻魔賽日」「十王詣」という。
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、コトバンク、Wikiquote
[ 2] 盆提灯がよくわかる(滝田商店):http://www.bonchochin.jp/l
[ 3] 歳時部/盂蘭盆(古事類苑):http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8%2F%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86
[ 4] お盆 迎え火のやりかた.時間:http://mukaebi08.seesaa.net/
[ 5] 盂蘭盆会、他(百度百科):http://baike.baidu.com/view/60580.htm
[ 6] 京都五山送り火(京都観光協会):https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/enkaku.html
[ 7] 信仰と民謡 県民カレッジテレビ放送講座(とやま学遊ネット):https://www2.tkc.pref.toyama.jp/contents/furusato/tvkouza/00minyo/t00-4.html
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2015.10.04] ORIGINAL