中国が起源
・ 七夕は中国の節日のひとつ
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七夕は七月七日の節日。
漢(前漢 BCE 206年 - 8年、後漢25年 - 220年)以前から七月七日のように月と日の数字が同じ日である重日は天地が交流する日であった。
春秋戦国時代(BCE 770~BCE 221年)に発生した陰陽五行思想では奇数は陽、偶数は陰であり、七月七日のような奇数の重日は陽+陽=陰の忌み日であり忌払いの祭祀が行われた。
陰陽五行思想のもと一、三、五、七、九の重日は五節日として重要な宮中行事が行われた(ただし、一月は人を占い関連で一月七日)。
宮中行事であった七夕は中国南北朝時代(439年~589年)には織女・牽牛伝説と乞巧奠と共に民間にも広まった。
・ 中国南北朝時代には七夕の宴が広く催されていた
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梁(502年 - 557年)の宗懍撰の『荊楚歳時記』に宴の様子が記述されている。
七月七日、為牽牛・織女聚会之夜。(中略)
是夕人家婦女結綵縷、穿七孔針、或以金銀鍮石為鍼、陳瓜果於庭中以乞巧、
有喜子網於瓜上、則以為符応。(中略)
宋孝武七夕詩云、迎風披綵縷、向月貫玄針即是。
周処『風土記』日、七月七日、其夜灑掃庭中、露施机筵、
設酒脯・時菓、筵上散香粉、以祀河鼓・(牽牛)織女。此言二星神当会。
守夜者咸懐私願。或云、見天漢中、奕奕有白氣。或五色光輝以為徴応、
拝便得福。然則中庭祈願其旧俗。
七月七日は、牽牛織女、聚会の夜なり。
是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金銀・鍮石を以って針と為し、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以って巧(=裁縫技術)を乞う。喜子(=蜘蛛)の瓜上に網すること有れば、則ち以て符応と為す。
なお、『荊楚歳時記』に引く三国周楚の『風土記』には、七月七日、庭を掃除して筵をしき、机を置く。
その上には、酒・乾した肉・季節の果物などを並べ、筵の上には香粉をまいた。
この夜、牽牛(河鼓)と織女の二星が会合するのだといい、二星に祈りをささげたという。
そして、天の川に、地上の川の波濤のような美しさを見、さらに五色の輝きを見た者は、これを良き徴候として拝み、
富を願い、長寿も願うのである 。
織女・牽牛伝説
・ 織女・牽牛星は旧暦七月七日ごろよく見えた夏の夜空を代表する星
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織女星と牽牛星は夏の夜空を飾る天の川を挟んで対峙する明るい恒星。
織女星はこと座α星ベガ、牽牛星はわし座α星アルタイルである。
七夕のころ中国の宮廷から見える星の中で輝きが大きな星であった。
天の川の上に輝く織女星(ベガ)、天の川を隔てて下に輝く牽牛星(アルタイル)
ちなみに、左の明るい星はデネブ 3つの星で夏の大三角
引用:http://www.plurk.com/p/j148ok
・ 織女・牽牛星は孔子が編纂した「詩経」にも記載されている
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織女・牽牛星の両方が出てくる文献の代表が春秋時代に孔子(BCE 552年~BCE 479年)が編集し、中国最古の詩篇といわれる四書五経の一つ『詩経』の「小雅」編「大東」という詩である。
下記はその一部、織女・牽牛星の記述部分。
維天有漢、監亦有光
跂彼織女、終日七襄
雖則七襄、不成報章
睆彼牽牛、不以服箱
・ 織女・牽牛伝説は漢時代にはあった、天の川を挟んで織女・牽牛は見つめ合うだけだった
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織女・牽牛伝説は『文選』の中の後漢(後漢25年 - 220年)の時代に編纂された『古詩十九首』其十にある。
迢迢牽牛星 皎皎河漢女
纖纖擢素手 颯颯弄機杼
終日不成章 泣涕零如雨
河漢清且淺 相去複幾許
盈盈一水間 脈脈不得語
天の川を隔てて遥かな牽牛星よ、また白く明るい織女星よ。
かぼそい手で糸を引き、颯爽と機を織る。
一日中織ってもが出来上がらない、織女の目からは涙が雨のように流れ落ちる。
天の川は清くてしかも浅い、互いに隔たる距離はそう遠くはない。
水の流れる川を挟んで、見詰め合ったまま語ることもできないのだ。
織女星は河漢女となっているが河漢は天の川のこと。まだ見つめ合うだけで会うことは許されていない。
・ 中国南北朝時代、現在とほぼ同じ織女・牽牛伝説物語の記述がある
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南北朝時代の六朝・梁代(502年 - 557年)の殷芸(いんうん)が著した『小説』にある。
天河之東有織女 天帝之女也
年年机杼勞役 織成云錦天衣
天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎
嫁後遂廢織? 天帝怒
責令歸河東 許一年一度相會
天の河の東に織女有り、天帝の子なり。
年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織のみ。
天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒る。
河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す
織女・牽牛が会うのは七月七日と最初に明記した文献は梁(502年 - 557年)の宗懍撰の『荊楚歳時記』とされる。
王仁裕 (880~956年) の『開元天宝遺事』 に織女・牽牛星を祝う宴の様子が述べられている。
宮中以錦結成楼殿、高百尺、上可以勝数十人、陳以瓜果酒灸設坐具、以祀牛女二星
乞巧奠
・ 中国の七夕の行事は乞巧奠、6世紀には行われていた
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「乞巧奠(きこうでん)」は織女星にあやかって機織りや裁縫の上達を願う祭である。
梁(502年 - 557年)の宗懍撰の『荊楚歳時記』に記述がある。
七月七日,為牽牛織女聚會之夜
是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧
有喜子網於瓜上。則以為符應
七月七日は牽牛と織女が会う日である。
この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、
またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。
もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。
引用:百度百科(オリジナル不明)
・ 乞巧奠の遊び、穿針乞巧
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『荊楚歳時記』に記述があるように乞巧奠では針に糸を通す早さを競う遊びが行われた。南北朝から7本の針という記述が続くが唐の末期から元にでは9本の針の記述が表れる。
中国南北朝時代の東晋時代(317年 - 420年)の『西京雑記』に
漢彩女常以七月七日穿七孔針于開襟楼
漢の着飾った女達はいつも七月七日に前が開いた祭壇で七本の針に糸を通す。
唐末五代の王仁裕(880年-956年)の『開元天宝遺事』に
七夕,妃*(女偏+賓)各以九孔針五色線向月穿之,*(さんずい+寸)者故為得巧之侯
七夕の時、妃やそれに次ぐ者はそれぞれ9本の針を月に向かって通す、一番早く通したものが最も器用(得巧)とされた。
国立台湾歴史博物館所蔵、引用:臺灣女人(http://women.nmth.gov.tw/zh-tw/Media/PicList.aspx?Para=220&Class=4)
・ 乞巧奠の占い、喜蜘應巧
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七夕の夜、女たちは、蜘蛛を捕らえて小箱に入れ、翌朝箱を開き、蜘蛛が箱の中で作っている網の形を見て、自分の手仕事の上達を占ったとも云う。蜘蛛の網は、機織りを象徴するものであった。
引用:百度百科(オリジナル不明)
・ 乞巧奠のため索餅が供えられた
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中国では機織りや裁縫の上達祈願のため、乞巧奠では饂飩、索餅(さくべい)など糸状、縄状の食品が供えられた。
祭祀の後、半分を織女の為に屋根の上に放り投げ、半分を食した。
索餅とは、油で揚げた縄状の形状の菓子の1つ。後漢末期の訓詁書『釈名』の索餅の項がある。
引用:「のじりカンパニーの憂鬱」http://nojiricompany.otemo-yan.net/e502156.html
たなばた
・ 「たなばた」は「棚機」、日本の古来の神事と関係ある
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「たなばた」は織り機あるいは織女のことで、日本書紀や古事記に表われる。
『古事記』国譲りに「多那婆多」という記述がある。
阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流
多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜
美多邇 布多和多良須
『日本書紀』第九段一書に「多奈婆多」という記述がある。
阿妹奈?夜 乙登多奈婆多廼 汚奈餓勢?
多磨廼彌素磨?廼 阿奈陀磨波夜
彌多爾 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰
織女星と「たなばた」が機織りという共通性で結びついたと考えられている。
古来「棚機」は禊ぎ神事であった。
乙女が着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて人々の穢れを祓うというもの。
この乙女は「棚機津女(たなばたつめ)」と呼ばれた。
これは、古事記や日本書紀の中にその由来をみることができる。
『古事記』
「天照大神、忌服屋(いみはたや)に坐して、神御衣(かんみそ)を織らしめし時、[中略]
天の服織女(はたおりめ)、見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき」
『日本書紀』
「天照大神の、みざかりに、神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居ましますを見て」
「棚機津女」伝説は日本各地にみられ、名古屋の多奈波太神社に祀られている「天之多奈波太姫命」などがある。
また、今は禁止された人形を船に乗せて川に流す「七夕流し」も、厄や穢れを流して祓うという意味が込められていた。
引用 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第2回「たなばたの森──多奈波太神社」(Network2010):http://network2010.org/article/1275
・ 仏教ではお盆に関連付け「棚幡」と表記した
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お盆は日本古来の祖霊信仰と中国の中元節と仏教の盂蘭盆が融合した行事である。
中国道教では旧暦の七月朔日(一日)に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じる。
日本では七日盆として七日の夕刻から故人をお迎えするための精霊棚や笹、幡などをご安置する。
棚幡は精霊棚とその棚に安置する幡(ばん)に由来する。
・ 宮中で広く「七夕」を「たなばた」というようになったのは延喜(901-923年)以降
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『古今要覧稿』
なぬかのよといふべきを、いつの比よりか七夕をたなばたと訓るは、より所なき事也、
されど延喜(901-923年)の比までは、七夕をなぬかのよといふ事たしかなり
日本への伝来
・ 日本には5世紀ごろ織機とともに渡来人により伝来したと考えられている
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『日本書紀』に応神天皇14年の時(283年)織女が伝来したとある。一緒に機織りに関連がある七夕も伝来したと考えられている。
十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。
・ 七夕は奈良時代に宮中行事、節会の一つとなり、律令で定められた
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『日本書紀』に持統天皇(在位690~697年)の時に七夕に宴を催したとある。
五年七月丙子(七日)宴公卿、仍賜朝衣
七夕(音読みでしっせき、訓読みでなぬかのよ)の節会という。
平安時代後期に描かれた儀式書『雲図抄(うんずしょう)』には
七月七日乞巧奠事
灯 灯 針差二楸葉一 灯
火舍蓮房 琴 火舍蓮房
灯 或置琵琶 灯 灯
茄 桃 大豆 干鯛 酒盃 熟瓜 梨 大角豆 薄蚫 色目如前
天平宝字元年(757年)施行された『養老律令』の第30編40条、諸節日条に
正月一日、七日、十六日三月三日、五月五日、七月七日、十一月大嘗の日を、みな節日とすること。
とある。ちなみに九月九日がないのは、天武天皇の忌日であるから。
大宮八幡宮の清涼殿内に再現された乞巧奠、引用:室礼&歳時記~知・好・楽~(http://sanbonmatu431.blog122.fc2.com/blog-entry-30.html)
歳時部七月七日雲図抄(http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/img2/saij_1_1231_001.gif)
・ 正倉院に乞巧奠に使われた針が保存されている
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天平時代(7世紀終わりから8世紀の中頃)を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた正倉院宝物殿に乞巧奠に使われた針が保存されている。
銀、銅、鉄の3種あり、宮殿の儀式に使われたので大型である。
七夕の乞巧奠〈きこうでん〉の儀式に用いた長大な針。女性が裁縫の上達を願い、この針に色糸を通したとされる。
第1号 銀針、第2号 銅針、第3号 鉄針(右より)各一隻(寸法:長34.8cm、径0.5cm、重49g)、引用:宮内庁正倉院宝物(http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000014734)
・ 七月七日の節会では相撲が奉納された
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奈良時代、聖武天皇の神亀3年(726年)に諸国より相撲人(今日の力士)が貢進された記録がある。
天皇、相撲戯を観たまう。
この夕、南苑に徒御し、文人に七夕の詩を賦せしむ
また、『続日本紀』の聖武天皇の天平六年七月七日に
天平六年七月丙寅、天皇觀相撲戲、是夕徙御南苑、命文人賦七夕之詩、賜祿有差
天皇、相撲戯を観たまう、この夕、南苑に徒御し、文人に七夕の詩を賦せしむ、禄を賜るに差あり
七夕の節会に、兵衛府の官人(武官)と諸国から貢進された相撲人たちの間で宮中相撲が行われるようになった。
引用 平安朝相撲節会の図(日本相撲協会):http://www.sumo.or.jp/sumo_museum/history
・ 七月七日に亡くなった天皇がいて、七夕の節会は廃止
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平安時代、淳和天皇(在位823~833年)の時、天皇の長兄平城上皇(元天皇)が弘仁15年(824年)7月7日に亡くなったため、七月七日は忌日となり、七夕の節会は廃止となった。
しかし、貴族の家では年中行事として七夕の宴が催された。
例えば、源高明(914~983年)による『西宮記』七月に宴の記述がある。
七日、内膳供御節供、... 内藏設殿上酒
相撲の奉納は、その後、七夕と切り離し相撲節会(すまひのせちえ)として7月16日や7月下旬に行われた。
しかし、次第に衰退し、承安4年(1174年)7月2日が最後の記録となった。
相撲そのものは武士の時代に盛んとなり発展していく。
・ 七夕は江戸時代寺子屋の広がりとともに盛んとなる
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江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。笹や竹を使った七夕飾りが始まり盛り立てた。乞巧奠でも笹が用いられる。
特に寺子屋では七夕に短冊に習字を行いその向上を願った。
江戸後期の『東都歳事記』に
〈三、七月〉六日 今朝未明より、毎家屋上に短册竹を立る事繁く市中には工を盡して、いろいろの作り物をこしらへ、竹とともに高く出して、人の見ものとする事、近年のならはし也、
江戸七夕、東都歳時記(武之介のだらだら日記):http://takenosuke.blog32.fc2.com/blog-entry-94.html
江戸時代の乞巧奠(ひらつか):http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/press/pre20080447.htm
寺子屋の七夕、宝永花洛細見図(ひょうごくらしの親子塾):http://ck.coop-kobe.net/kurashi/photo/120620_kurashi_5.jpg
七夕と素麺
・ 奈良時代には旧暦七月七日に索餅を食した祭祀が行われている
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索餅は奈良時代に伝来し、天武天皇の孫、長屋王(684年~729年)邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっている。
平安時代、醍醐天皇(885年~930年)の時に宮中の儀式・作法等を集大成した「延喜式(927年)」に、索餅が7月7日の七タの儀式に供え物の一つとして供えられたとの記述がある。ちなみに索とは縄の事である。
室町後期の「尺素往来」(せきそおうらい)には「殻(かじ)の葉の上の索餅は七夕の風流」とあり、このころには七夕の索餅は定着していたようである。
現代でも金刀比羅神宮などで旧暦七月七日に神事が行われている。
平成26年 索餅祭 (金刀比羅神宮):http://www.konpira.or.jp/news/2014/15/news.html
・ 病除けを祈願して索餅を食した
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平安時代には中国の故事に倣って瘧(おこり)病除けを祈願して索餅を食べていた。
平安時代末期の『掌中歴』に
七月七日索餅 高辛氏小子、七月七日死、其靈無一足成鬼神、於人致瘧病、其存日常喰索餅故
・ 江戸時代には日本では索餅に変えて素麺を食すようになった
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江戸時代には、七夕に素麺を供え物とする習俗が広まっていった。これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものである。
『本朝食鑑』12巻(1697年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
七月七日 必喫素麺 上下為例 家家饂贈 或 為星祭供 乞巧奠供
ちなみに中国では素麺は南宋時代(1127年 - 1279年)の文献に現在と変わらぬ素麺の製造法が記述されている。
日本では南北朝時代に元から禅僧の往来や貿易によって「索麺」「素麺」が伝えられた。南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年(1343年)7月7日の条に、索餅、索麺、素麺の表記がある。
『本朝食鑑』12巻(1697年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
日本の行事
・ 「七夕馬」
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七夕に真菰や茅、最近は藁などで作る馬の人形。七夕に子供達がこの馬で遊び、夕方に馬屋や家の屋根に投げあげる。牛や馬の安全祈願、豊作や子育て祈願の意味がある。
七夕馬作り(横芝光町立東陽小学校)http://touyousho.sakura.ne.jp/katsudou/tanabata2.JPG
・ 「七夕飾り」「笹」
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中国から伝わった乞巧奠では機織りや裁縫の上達を願い、五色の糸や吹き流しを吊ったり飾ったりした。五色は五行から来ており緑・赤・黄・白・黒。
笹に飾りをするようになったのは、江戸時代からで、夏越の大祓の茅の輪の両脇の笹竹に因んで始まったもの。笹は邪気を祓う神聖なものとされていた。
日本では民間への広がりとともに、江戸時代には笹に吹き流し以外にも様々な飾りをつける風習が広がった。飾りには意味があって、吹き流しは機織りなど技芸の向上、折鶴は長寿、投網は豊漁などを願った。
江戸時代に小林太郎兵衛、が1687刊の『江戸鹿子』に
〈二、年中行事〉七月 同日〈七日〉七夕祭 江戸中子供、短册七夕ニ奉ル、
江戸後期の『東都歳事記』に
〈三、七月〉六日 今朝未明より、毎家屋上に短册竹を立る事繁く市中には工を盡して、いろいろの作り物をこしらへ、竹とともに高く出して、人の見ものとする事、近年のならはし也、
歌川広重 名所江戸百景 市中繁栄七夕祭(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#/media/File:100_views_edo_073.jpg
七夕飾り(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#/media/File:Tanabata.jpg
・ 「短冊」
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中国から伝わった乞巧奠では五色の短冊に願い事を書いて吊るした。五色は五行から来ており緑・赤・黄・白・黒。日本の宮中では七夕にサトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、七枚の梶の葉に歌を書いてたむけた。詩歌の上達などの願い事を書くようになり、江戸時代に短冊に置き換えられ庶民に広まった。このため短冊は一葉、二葉と数えられる。
・ 「七夕まつり」
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大がかりな七夕まつりは昭和3年開催の東北産業博覧会終了後、仙台商工会議所が市内の町内会に呼びかけて、七夕祭りを実施、飾り付けのコンクールを行った。戦後の復興の中で平塚、一の宮など各地に広まっていった。
仙台七夕まつり(Wikipedia)https://ja.wikipdia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#/media/File:Sendai_Tanabata_2005.jpg
・ 「七夕人形」「七夕流し」
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日本古来の「棚機津女」の伝説に関連し女の人形を作り七月八日(旧暦は日暮れが日にちの境なので七月七日日の入り後)に船に乗せたりして川などに流す行事。厄や穢れを流す意味がある。
長野県松本地方、新潟県糸魚川市、黒部市尾山地区など中部地方北部にその風習が残っている。
七夕が伝来してからは乞巧奠で飾った物を流すようになった。江戸時代には笹飾りを流した。
現在は笹飾りを流すことは川の環境保全から禁止されている。
七夕人形(松本のたから、松本市教育委員会)http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/national/019.html
七夕流し(七夕文化)http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/muramatu.html
雑学
・ 「七夕」は秋の季語である
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秋は二十四節気に基づく節切りで立秋から立冬の前日まで。立秋は七月節。
また、旧暦(太陰暦)の月切れでは七月・八月・九月。
七月七日は秋である。
・ 短冊は一葉、二葉と数える
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中国から乞巧奠が日本に伝来してから、梶の葉に詩歌を書いてその上達を願った。江戸時代以降この梶の葉から短冊に代わっていったことによる。
引用、参照
本記事は個人的にインタネットでアクセスした情報をまとめたものです。
図に関しては引用元を記述しましたが文章は個別に引用文献を明示していません。
文章は下記を参照しています。
[ 1] Wikipedia、Wikiquote、コトバンク
[ 2] 七夕(京都地主神社):http://www.jishujinja.or.jp/tanabata/index.html
[ 3] 七夕伝承雑記(Nobk's Home Page):http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other-folk/tanabata.htm
[ 4] 現代語訳「養老令」全三十編(官制大観):http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro.html
[ 5] 七夕節(百度百科):http://baike.baidu.com/view/8489.htm?fromtitle=%E4%B8%83%E5%A4%95&fromid=25249&type=syn
[ 6] 迢迢たる牽牛星:牽牛織女七夕の詩(古詩十九首其十)(漢詩と中国文化):http://chinese.hix05.com/Koshi19/koshi10.chocho.html
[ 7] 七夕・そうめんの日(全国乾麺協同組合):http://www.kanmen.com/topic/02_soumen.html
[ 8] 百人一首 カササギの(1)~(15)(Polygondrill):http://polygondrill.com/tanabata-of-topic
[ 9] 歳時部七月七日(古事類苑):http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
[10] 七夕馬(文化遺産オンライン):http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/65212
来歴
主な来歴。「てにおは」など軽微な修正は管理者の判断で来歴に載せないこともあります。
[2015.09.01] ORIGINAL